『ニコマコス倫理学』を通じて心理療法を考える

 アリストテレス著『ニコマコス倫理学』を読み終わった。この本に関するエントリーは、これが最後の予定。そこで今一度この本の中心の主張だけをまとめ、心理療法に照らして考えられることを書いておく。
  この本の主張をまとめると、幸福(エウダイモニア)こそが人間の目標である、とされている。このエウダイモニアは一般には幸福と訳されるが、訳者による解説(下巻p243)によると、原義では「ダイモンによってよく見守られていること」という意味を持ったことばであり、日常的な用語としては「好運」というのに近い言葉であったようだ。
 では、なぜエウダイモニアが大切か。アリストテレスは「それ自身として追求に値するところのもの」が至高の価値を有していると考えており、幸福(エウダイモニア)はそうした特性を最も具備しているからこそ大切だというのだ。

そうした性質を最も多分に持つと考えられるのは幸福(エウダイモニア)である。なぜなら、われわれが幸福を望むのは常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく・・・(p30)

 別の目的を達成するための手段−たとえば金儲けなど−は生の究極的な目的ではない。そうした手段が自己目的化してしまうことが多いが、本来の目標はエウダイモニアにおかれるべきだということだ。
 ではエウダイモニアはどのような状態か。アリストテレスは、人間性が全体的に開花した状態だと考えていた。そして、それを実現させるには「中庸」が大切だと述べている。なぜなら、対立的な特徴(蛮勇−怯懦)がバランス良く表出されている状態(勇気)こそが、二つの両極端の両方が活性化している状態であり、だから全体的に生きている状態だとみなすことができるからだ。中庸というと「どっちつかず」と否定的にみなされがちだが、アリストテレスの主張そのものは、自分の中の反対の動きのどちらにも開かれた状態のことを指している。
 以上のアリストテレスの主張を心理療法に照らして考え直してみる。
 精神分析的な心理療法では、患者が見たくない/体験したくない部分を、見る/体験しすうとすることが目指される。この目標が正当化しうる理由に、アリストテレスの理論が援用できることになる。抵抗を克服することが、エウダイモニアの実現になる、すなわち、全体的に生きることへの前進につながり、そして人間性を開花させることになるからこと、精神分析的な援助が正当化される根拠があることになる。
 葛藤を一定抱えることができる患者(三者関係の病理がある患者)への治療的援助にも、アリストテレスの「中庸」の理論が援用できる。すなわち、ある主張(たとえば「母が憎い」)を患者がしている場合、治療者は「なるほどそう感じるのも理解できる」と思って肯定的に聞くとともに、その反対に位置するであろう考え(「母が好き」)にも注意を向け、言葉にしていく(「でもお母さんのことを好きだと思うことはなかったろうか」)と、患者の中に次第に葛藤が生じ始める。そうなれば今後は葛藤を何とかしようとする、健康な自律的な動きが生じ始めるはずだ。この動きを見守っていけば、患者は自然と発展的になっていくはずである。
 ちょっと強引なまとめ方かもしれないが、大略は間違っていないだろう。

 さて次にスピノザの『エチカ』と迷ったが、鈴木大拙著『日本的霊性』へ進むことにした。鈴木大拙浄土教(特に親鸞)と禅を重要視しているが、そのロジックをじっくり追っていく。