グレゴリ・ジルボーグGregory Zilboorg著『医学的心理学史』を読む

 「外来統合失調症ambulatory schizophrenia」の概念で知られるジルボークGregory Zilboorgが著した『医学的心理学史』A History of Medical Psychology(みすず書房)を読んだ。原書は1941年。神谷美恵子氏による日本語版は1958年出版。
 ジルボーグは1890年キエフ生まれ。年若い頃にポグロムを見たことが、彼のパーソナリティに影響を与えたという。M.D.を取ったあと、革命後のケレンスキー政府で労働大臣の秘書官になったが十月革命で追われる身となりアメリカへ脱出。コロンビア大学で医師資格を取り直した。その後、ベルリン精神分析研究所で精神分析のトレーニングを受け、以後はニューヨークで活躍した。1959年に死去。
 ちなみにWikipediaによればジョージ・ガーシュインリリアン・ヘルマンはジルボーグの治療を受けたそうだ。知らなかった。

 この本の特色は、古代から現代に至るまで、精神疾患にどう人間が向き合ってきたかを力動的な視点から読み解いていく点にある。精神病が他者に引き起こす不安というものを踏まえて、不安の強烈さゆえに集団的に否認してしまいたくなる動き(たとえば魔女狩りに顕著に表れたような動き)と、それでもなお精神病というものを積極的に理解しようという人間的な努力とのせめぎ合いの中で、次第に理性的な努力が勝利していく歴史的展開を、細かな資料の積み重ねで描き出していく。著者の視点は、時に思想の潮流や社会体制などを鳥瞰的に描き出したかと思うと、逆に精神医学者の個人のエピソードへと降りていくなど、視点を自在に操りながら筆を進めていくのに思わず嘆息。
 一般的に「精神医学史」の本は、「医学史」の記述の方法論と同様に客観的な情報の集積として語られがちとなり、歴史を動かしてきた内的モーメントに光があたっていないことが多い。このような類書の弱点を自覚的に越えようとしている点に、この本独自の魅力がある。
 著者のそうした意欲は、この本のタイトルが「精神医学史」ではなく『医学的心理学史』となっていることによく表れている。精神病は他者の中に恐怖を引き起こすものだが、それでも恐怖に圧倒されるのでなく、共感的に理解しようとする姿勢が大切だと彼は考えている。そして、そうした努力は「医学」ではなく主に「心理学」と呼ばれる営為の中にあった、と彼は見ている。それゆえジルボーグは、「医学」の一つの到達点であったクレペリンの業績には大変冷ややかな評価を与える一方で、患者の苦悩を理解しようとしたワイヤーやピネルなどにはどこまでも暖かな共感を寄せる。
 このように彼の文章の行間からあふれだすヒューマニズムは、彼がロシアにいた頃に身近に体験したポグロムや革命の流血によってもたらされた心的外傷が、きっと大きく影響しているのだろう。そして、こうした執筆態度に、訳者の神谷美恵子さんが深い共感を寄せているのもよくわかる気がする。

 ということで、せっかくなので要約を作ってみた。しかし、いつものごとく超要約であって、この本の内容を正確に反映したものではありません。特に今回は、他の本から集めた情報もてんこもりですので、くれぐれもあてになさらぬように。

 
1 緒言
 精神医学は内科や外科と同じ線に沿って発展しなかった。内科や外科は患者が苦しみ、患者が治してほしいと願う。そうした患者の要望が医師の社会的性格を規定していく。しかし精神医学は、患者が治してほしいと要望しない人たちに対する学問である。だから患者の意志に反して、また社会の意志に反して、既成の権威に反して、医師たちはそれを推進して行かなくてはならなかった(p11)。

 内科学と外科学は病者自身によって創られ、刺激され、いわば無理やりに存在させられたのであるが、それに対して精神医学は医師の発見したものであった。(p11)

 だから精神病の歴史を語ろうとすれば、内科や外科の歴史において医者の努力を物語れば良いのに対して、精神医学だと文化の発達や法律学、神学、哲学などのある面の探求を必要とする。(p12)

2 原始時代および東洋における医学的心理学
 精神病に罹っている人に出会うと、人は恐れや敵意を感じた。人は自分の不安や恐れから逃れようとするので、ほとんどの文化の中では精神病に対して理解は深まらなかった。しかしインド文化と早期ギリシャ文化では、精神病にも、人間であれば理解することができる「意味」があるはずだと、考えられるようになった。

3 ギリシア人とローマ人
 古代ギリシア。神話の水準では、精神病は神々がその精神を奪い去るから生じる、と考えられていたし、だから「精神病」はひどく奇妙な行為を意味するだけのものであった(p20)。たとえばアイアスはそのように描かれている。そして精神病者は病人としては認められておらず、神殿に入ることを禁ぜられ、石で追われることもあった。しかしたとえばデルフォイの神託の巫女のように、重症の精神病に罹っていたと推測される人が、人間の災難を解釈し、癒す役割として選ばれることもあった。
 それでも次第に、合理的な精神が生まれてくる。ヘラクレイトスは理性が人間の内部にある火に依存していると考え、火が乾くと霊魂、理性、判断力が賢くなり、湿ると病気に近くなると想定した。彼こそは、個人にはじめて十分な光を当てた人である(p22)。その 頃プロタゴラスは「人は万物の尺度である」と宣言し、「個人の重要性とヒューマニスティックな態度」を強調した。
 しかしギリシア哲学が残した負の影響として重要なのは、「人間の精神というものをもっぱら哲学−宗教的もしくは世俗的なる−の領域」だと考えた点にある。このために、医学から精神を探求しようとすると、神学、哲学によって猛反発を受けることになった。この伝統は19世紀まで続いた。
 そんな中で、ヒポクラテスは合理的精神を持っていた点で際立っている。たとえば、彼はてんかんについて「ほかの病気と同様に自然的原因を持ち、それから生じる」(p25)と書いている。彼は解剖学的、生理学的、心理学的な病因論をあわせ持っていた。またきわめて臨床的であり、狂気に罹っている際に身体病が起こると、これは精神病を軽減することを見抜いている(p28)。この発想が、後に行われるようになる、進行麻痺のマラリア療法などに転用されていった。さらに生命力(ベルグソンのエラン・ヴィタルに近いもの)を想定したり、夢の発生についての試論を提示したりしている。彼の理論は多少折衷的に見えようが、それでも当時の学問によって与えられる知識を、一人の経験ある医師として、ともかくまとめようとした重要な所産であったことを認識すべきである。
 この後、プラトンアリストテレスがいた。
 その後訪れたヘレニズム時代では、紀元前1世紀のアスクレピアデスが重要である。というのも、古代ギリシャでは妄想も幻覚も幻想phantasiaという一項目で理解されていたが、アスクレピアデスはこの二つを区別したからだ。
 さらに紀元130-200のガレノス(pp56-)は医学の展開という点では重要な人物である。この頃には、古典文化の崩壊は進み、感情的な思弁が支配していた。それでも、さまざまな文化の中の種々な思想の有益なものを選りだして編纂しようとした、いわゆるエクレクティシズムが生まれた。ガレノスはこの指導的な医学的代弁者であった。ガレノスの体系は「ガレニズムの名のもとに、殆ど18世紀の中頃まで医学界を支配」(p57)することになった。彼は、霊魂の座は神経中枢にあり、動物的霊魂は理性的であり、その座は脳にあると考えた。さらに理性的霊魂を外的なものと内的なものにわけ、外的な理性は五感の機能であり、内的なものは想像力、判断力、記憶、統覚、運動に分ける、などの提唱を行った。
 しかしガレノスの死によって、医学史における暗黒時代が始まる。

4 大いなる衰退
 古典的知識の源泉がアテナイではなく、アレクサンドリアにあったことに不幸の源泉があった。というのも、ヘレニズムがユダヤ、エジプト、ペルシャなどの知識が流合したものであるため、ギリシアの美点が失われたからである。
 異邦人が侵入しようとする中で、たとえばストア派の自覚に見られるように、人間の小ささ、取るに足らぬものであることを痛感するようになっていった。ここにキリストを受け入れるための社会的準備が醸成されていった(p64)。そんな中で人間的なものは軽視されるようになり、ギリシャ的な人間活動の科学的探求が姿を消していった。

人間というものは、自分に賦与されているものの中で自分が最高のものと考えているもの、すなわち彼の精神、彼の霊魂について常にあまりにも不安を感じているのだ。その不安において、特に大きなストレスの場合に、彼は常にあいまいな、自己矛盾した状態に陥り、一方においては、世界を一種の神秘主義的な謙虚さをもって眺め、他方においては自己の精神を完全なものと見るのである。この二元的な立場は、種々雑多な形をとってあらわれて来たが、それらすべてを通じて常に人間心理に対する健全な医学的態度を確立するのを妨げてきた(p63)

 さらに二世紀になると、ヘブライ神秘主義グノーシス派、ネオ・プラトニズムなどの影響によって科学はさらに弱体化する。特にグノーシスの人たちは、秘密のグノーシスという知恵あるいは知識を独占することができる特権的な人が幹部となり、神と人間との間の媒介者を発明しようとして神話的幻想にふける傾向があった。ここに鬼神論demonologyの礎石が据えられることになった(p65)。
 次第に、医学における経験主義的伝統よりも宗教上の論争や形而上学的な論戦が重視されるようになっていった(p66)。そして313年コンスタンティヌスがミラノ勅令によってキリスト教を国教に定め、プラトンアリストテレスの研究が禁じられるまでに至った(p69)。
 こうして人間存在が価値を失うにつれ、現在というときは、二つの大なる未知のもの−過去と(犠牲を要求する)未来との間で、中間的なかりそめの挿話になっていった。そしてアウグスティヌスによって神学と心理学が完全に融合されることになり(p76)、人間的な心理学の芽は一旦消えることになる。
 そして640年にアレクサンドリアがアラビア人に占領され、図書館は破壊され(p78)、薄明の千年が始まる。

5 鬼神論への降伏
 古典的知識の衰退からルネッサンスにおける科学的好奇心の復興との間は、薄明の千年というべき時代であった(p80)。
 9世紀〜10世紀頃は、心理学的問題は神学的問題として扱われるよりほかはなかった(p87)。心理的困難に悩む人は異端者として扱われるか、悪魔払いの祈祷によって治療されるか、しかなかった。しかしその頃はまだ忌避の対象というわけではなく、いたわりの目で眺められる存在ではあった。
 13世紀の後半になると、ようやく人間の知性が目覚めるようになって、たとえば大学が多数開かれるような変化が生まれた。しかし、こうした認識の広がりは、既成の秩序野中で安定していた人たちにとっては、不安を高められることでもあった。そのためアリストテレス焚書や宗教裁判が開始されることにもなった(p90)。
 特に13世紀、1233年にグレゴリー九世によって始まった宗教裁判の制度は、約20年後に法皇インノセント4世によって完成され、これによって自由への動きが押さえ込まれる制度的基盤が整えられてしまった。この頃、恍惚を伴う宗教的伝統、奇蹟信仰などによって、精神病的体験に親和的な状況が創られ、世間に精神病状態がより広がったと考えられる。しかし、それとともに大衆は精神病への忌避の度合いを強めていった。
 15世紀になると国家が精神病の流行に危機感を抱くようになってきた。新しい知識への探求欲も高まったが、新しい知識は当時の社会体制を不安定化させる要因ともなったため、研究する人は異端扱いされる危険が高かった。こうして15世紀中葉には、精神医学のもっとも暗黒な時代が始まった。

6 魔女の槌音
 1487年から1489年の間に、神学者シュプレンガーとクレーマーによって『魔女の槌』が刊行された。1447年に活版印刷が発明されたこともあって、この本は宗教裁判の教科書として広く普及していった。この本において、狂気と魔術と異端が一つに集約されてしまったため、精神病に対する医学的検討の可能性が奪われることになった。そして人間の自由意志も次のように解されることになった。

 人間というものは、何をしようとも、たとえ彼の知覚や想像力や知的な機能を歪めるような病気に罹ったとしても、これを自己の自由意志で行うのである。彼は自分の意志で悪しき者(悪魔)の要求に服従するのである。・・・この自由な選択に対しては責任は彼に帰せられなければならない。・・・彼の霊魂はこの堕落した犯罪的な意志によって肉体の中に罪深く囚われているのであるから、再び自由にされねばならない。・・・すなわち肉体は焼かれねばならないのである。(p106)

 換言すれば、精神病患者は本人が自分の意志に基づいて病気になっているのであり、そうなった責任は本人にある。霊魂を彼から解放させるためには、焼くしかない。こういう考えが広まったのである。
 16世紀になってもこの魔女狩りは続く。しかし一方で、すでに始まっていたルネサンスの潮流が次第に力を大きくしていく。

7 第一次精神医学革命
 自由の感覚が覚醒しはじめるにつれて、ゆっくりと変化が生じ始めた。たとえばやダンテ(1265-1321)やボッカチオ(1313-1375)などがその動きの代表である。マイスター・エックハルト(1260頃−1328)は、個人の価値を重視して、こういった。「もし私(人間)が存在しないならば神は存在しないであろう」(p121)。ただこうした人たちは医者ではなかった。その頃の医者は、まず解剖に関心を持ち、生きた人間よりは屍体を研究した。
 しかし16世紀に初めて心理学psychologiaという言葉が用いられるようになった。すなわち人間の心が、科学的探求の対象になりはじめた。ここから二つの流れが生まれた。一つは精神の特性や作用は、霊魂によるものではなく、肉体の活動の中から生まれるというものである。もう一つは、人間の行動や感情や思考を純粋に経験的に観察することへの興味である。
 この時代の重要な人物は、ヴィヴェス、バラケルスス、ヨハン・ワイヤーである。特にワイヤー(1515-1588)は、患者をあるがままに見ることを重視し、彼らの人格の内的独立を認めることを重視した。そして人間心理の不調和や矛盾にたじろぐことなく、そのことの重要性を他者に示した初めての人であった(p161)。しかし同時代の神学者らから激しい批判を受けた。

8 再建の時代
 ルネッサンスによって人間が解放され、さらに天動説が棄却されるにつれて、人間の精神に重荷が置かれることになる。自分のおかれている地面が確たるものでない、という自覚によって、である。
 この時期には、世界や自然を知りたいという欲求が前進したが、逆に人間の心に対する問題には興味を失ったようで、医学的心理学や精神病の理解はあまり進まなかった。
 17世紀には、科学的探求が進む中で観察道具が進歩した。そして1628年にはウィリアム・ハーヴェイによる血液循環の発見、さらにボレルリの毛細血管の発見、マルピーギによる毛細血管における血液循環の直接観察、フックによる植物細胞の描写などの進歩が相次ぐ(p179)。しかしこうした17世紀の発見は人間の物理学的、生理学的観点からの研究を進めたが、人間の行動を人間の個人的、個別的観点からは検討される芽を育まなかった。その意味において過渡的性質を持つ時期である。なお17世紀の人としては、デカルト(1596-1650)、ジョン・ロック(1632-1704)、スピノザ(1632-1677)、ライプニッツ(1646-1716)、ニュートン(1643-1727)など。
 18世紀になると、蒸気機関が発明され、新しい庶民階級が出現し、発言権を要求するようになり、人権が重視されるようになる。1776年アメリカ建国、1789フランス革命バークレー(1685-1753)、ヴォルテール(1694-1778)、ルソー(1712−1778)、ヒューム(1711-1776)、カント(1724-1804)、ラマルク(1744-1829)、メスメル(1734-1815)、ゲーテ(1749-1832)、ガル(1758-1828)など。
 この世紀では、科学的な心理学の流れにおいては人間は機械になぞらえられて思考される一方、哲学や社会学では、「人権の尊重」という潮流に見られるように人間存在そのもの重要性が強く意識されるようになった。しかし、この二つの間には内的矛盾が存在している。当初はそのことは明白ではなかったが、その矛盾に気づいて、二者の統合の必要性を自覚しはじめた人もいた。たとえばカバニスはそうした人であった。
 医師は身体疾患を扱うことになれていたので、身体疾患の分類モデルを精神病にも採用することになった。その後、精神病に関する疾病分類が種々試みられるようになったが、やがて単なる新しい用語のコレクションに堕していった感が強い。
 当時の精神病者の治療は、患者を正気に戻すために水中に放り込んだり、大砲を発砲したりすることが妥当だと考えられていた(p206)。治療技法が進展しなかったこともあって、病院の組織や病院改革、精神医学教育に関心が集まるようになった(p210)。
 フランス革命などを通じて、個人の社会的責任が意識されるとともに、社会の構成員に対する社会自身の責任も重視されるようになり(p227)、たとえばジャン・コロンビエは「社会がもっとも熱心な保護と世話を与える義務のあるのは最も弱く最も不幸な者に対してである」といった。
 ヨーロッパの変化を先導したのはフランスであったが、精神医学の変化もまたフランス人医師によってもたらされた。フィリップ・ピネル(1745-1826)は革命と恐怖政治の時代からナポレオン治世に至るまで、ビセートルとサルペトリエールの医長をつとめ(p230)、最後はサルペトリエールの自室で死んだ。平静で道徳的で、適度に敬虔で、見識を備えた保守主義者であったようだ。
 ピネルがビセートル病院に赴任したのは1793年9月11日。彼は直ちに鎖や足かせを解いた。しかしフランス革命と同じ理想に向かって戦っていたが、民衆はそうだと思っていなかった。ある日、群衆がピネルをとりかこんでリンチを受けそうになった(p234)。しかし、ピネルによって解放された患者シュヴィニェが群衆を撃退した。この図式は、精神医学の歴史的転換の一つの象徴である。なぜなら、精神医学を医学に合併させたのは医師であった。それに恐怖を感じたのは、社会、群衆だった。しかしそれを守ろうとしたのは、患者であった。ピネルはまた、水責めや瀉血療法に強く反対した(p236)。

9 神経症の発展
 メスメル(1734-1815)が1774年に動物磁気を発見した。野心家であった彼は、さまざまな場所で催眠をかけ、民衆は熱狂した。しかし1784年に設置されたベンジャミン・フランクリンやラヴォアジエらによって構成された委員会によって、動物磁気の存在が否定されるとともに、磁気治療法は有害だとされた(p249)。
 しかしメスメリズムは広がり続けた。その理由の一つは、医師が精神病には関心を持ったが、のちに神経症と呼ばれる状態の患者には関心の目が向けられず、放置されていたことにある。ただ、流行してはいたのだが、治療にのみ重きを置く一つの粗雑な経験的主義に過ぎない(p252)、という重要な問題を抱えてもいた。
 そんな中、リエボー(1823-1904)が1860年にメスメリズムの研究を始め、シャルコー(1825-1893)は1878年に催眠術を用い始めた。そしてベルネーム(1833-1919)は、1882年にリエボーを訪問した。
 シャルコー率いるサルペトリエール学派は純粋に記述的研究を行い、ヒステリーにのみ催眠術がかけられる点に注目し、催眠現象がそれ自体異常性の表れと考えた(p262)。しかしリエボー、ベルネームのナンシー学派は、幅広い患者を診療していく中で、あらゆる人に催眠現象が生じると主張し、暗示という現象が誰にでもみられることを明らかにした。そしてベルネームはこんな言葉を残している、「ヒステリーの治療は暗示ではなく、脱暗示de-suggestionである」(p273)。すなわち、病気の基盤となっている有害な思考内容を、脱暗示して取り除く、と考えていたわけで、その意味においてフロイトの真の先駆者であった。

10 体系の時代
 19世紀フランス精神医学において重要な人としては、ギヨーム・フェリュス(1784-1861)エスキュロール(1772-1840)、モレル(1809-1873)、マニャン(1835-1916)らである。なおクロード・ベルナールの『実験医学序説』は1865年に刊行されている。
 イギリスではウィリアム・テューク、モーズレイ(1835-1918)。
 アメリカではベンジャミン・ラッシュ(1745-1813)が精神医学治療の先駆者であった。そして1844年にAPAが設立された。
 ドイツは発展が遅れたため精神医療の改善活動と、精神医学の発展を同時に行わねばならなかった。その中でも重要な人物は、「精神病は脳病である」と言ったグリージンガー(1817-1868)である。彼によって、ドイツ精神医学は身体の方へ向かったが、その極端な典型がマイネルト(1833-1892)であった。しかし、こうした傾向からニッスル(1860-1919)やアルツハイマー(1864-1915)などの重要な貢献も生まれた。
 しかしその後、病気の身体的な原因を決定することができなかったため、病気の経過を注意深く観察する、いわば臨床的現象学者(p327)が生まれた。カールバウム(1828-1899)がそれに当たる。
 その後精神医学を体系化したクレペリン(1855-1926)。彼は包括的で正確な疾病分類を打ち立てることに成功した。ただ彼は自分の研究の中で「個人」が見失われたことについては、気づいていなかったようだ(p330)。「クレペリンは患者が病めるとき何を考えるかを知りたいと欲せず、いかに考えるかを知らんとした」(p331)のだ。
 それゆえ同時代のドイツでもクレペリンの見解に疑問が出されるようにもなった。(p339)それは「人生というものが精神医学には答えることのできなかった質問を問いかけていたからであった」(p339)。
 振り返れば、グリージンガーからクレペリンの身体論者の流れというのは、当時ドイツで進んだ急速な工業化がロマン主義的な思想を置き去りにして発展していた基盤の上に成立しえたものであり、実在する人間から遊離した面を持っていた。特に彼らの大きな間違いは、人格を全て脳に還元したことにあった。
 
11 第二次精神医学革命
 自然主義の影響によって性的なことへの率直さが増していく中で、ゾラ、モーパッサンなどの芸術だけでなく、クラフト・エービングや、ネッケ、フォレル、ハヴロック・エリスなどの研究に影響を与えた。
 以下、フロイトについて語られる。(が、割愛する。)

12 結語
 以上の全体を総括して、最後に次のようなことを述べている。
 精神病というものは、医師にヒューマニスティックな寛大の精神を要求する。それなしでは、患者との同一化は不可能である。その同一化によって医師は精神科医になったのだ。(p383)