小熊英二著『1968(上)若者たちの叛乱とその背景』を読む

 名著『〈民主〉と〈愛国〉』の小熊英二さんの新刊ということで、知るなり購入した。上巻1092頁、下巻1008頁の巨大な著作である。ただ、まだ上巻だけしか出版されておらず、下巻は7月末に刊行予定となっている。出版は新曜社から。
 個人的には、村上春樹の『1Q84』と並んで、現時点での今年のベスト1だ。
 60年代後半に大きな盛り上がりを見せた学園紛争。ブントの形成から、60年安保、ニューレフトのセクト間抗争、そして全共闘という大きなうねりになっていく様を、膨大な資料を駆使してたどり、全体像をつかもうとした意欲作である。
 過去にも紛争を語った資料はおびただしくあった。しかし、僕が過去に読んだものの多くは、概ね懐古的なものであったり、醒めた目で見下すものであったり、いずれも紛争に対して十分な感情的距離がとれていないものが多かったように思う。
 しかし今回の小熊の著作は、当時の左翼的な観念的言葉の羅列の背後で動いていた、若者たちの激しい情動のうねりをも客体化して示すことに成功している。その点で、はじめて紛争を「歴史」としてとらえた著作だといえ、今後、現代史研究の古典となっていく一冊だと感じた。
 この本の最大の美点は、若者たちのメンタリティ、とくに情動的な問題を基礎に据えて、「若者たちの叛乱」の全体像をつかもうとしている点である。

 筆者は「あの時代」の叛乱を、一過性の風俗現象とはみなしていない。だが、一部の論者が主張するような「世界革命」だったとみなしていない。結論からいえば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校自傷行為摂食障害、空虚感、閉塞感といった「現代的」な「生きづらさ」のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり反応した現象であったと考えている。(p14)

 この認識枠は、紛争の展開を心理的な問題に回収されることが受け入れられない人たちにとっては、激しい批判の対象となることが予想される。でも精神科医という僕の立場からすれば、この小熊の問題意識ゆえに、この本が大きな示唆を与えてくれる一冊になった。
 いま僕が精神科医として働く中で出会う思春期の精神病理。自己不全感や劣等感、過剰な万能感、アイデンティティの確立の問題、母なるものとの別れとそれに伴う孤独感、空虚感・・・。そうした心理的困難が外在化されて処理されていたのが、この時代であった。たとえば自己不全感を大学当局や資本主義に対して投影し、その未熟さを攻撃して処理しようとする若者、あるいはコミューンを形成する中で一体感を体験し、孤独をいやそうとする若者。いずれも懸命に、自分の内部の問題を克服しようとして、選択した行為であった。つまり彼等にとっては、イニシエーションとしての意味を有した行動であったのだ。
 しかし、そうした処理の仕方は、紛争終結とともに困難になっていった。個人化され、内面化され、あるいは身体化されて、最終的に精神科治療の対象となっていく。

当時の若者は、自分たちが直面している不満や閉塞感が何であるのか、言語化できないことに悩んでいた。そのためマルクス主義用語に依存したり、「疎外」や「主体性」といった言葉で語ったり、政治状況と結びつけることが少なくなかった。(p17)

 小熊は、マルクス主義用語や「疎外」や「主体性」という言葉を用いて討論することが、知的防衛であったことを把握している。そして、そうした観念化された思考よりも、この防衛の基部で作動しているメンタリティこそが重要であることも把握している。だから小熊は、多くの一次資料を用いてはいるが、それらの観念的な思考はほとんど切り捨て、その背後からふと漏れ出している若者たちの心情に着目して、ていねいに拾い上げていく。
 たとえば紛争の中の若者たちは、原始的な情動に駆動され、否認や分裂、理想化といった原始的防衛機制に頼らざるをえなくなっていた。それはある時には、紛争の歴史をいろどる英雄たちの神話化という形で表れた。当初から過剰に美化されて扱われた樺美智子の死、逆に当初は冷淡に扱われながら後に神格化された羽田闘争における山崎博昭の死、また日大闘争での秋田明大や、東大全共闘山本義隆・・・。こうした英雄たちの神話化の過程を丹念に描くとともに、実在のその人を描いた資料をたどることを通じて脱神話化することに意を用いる。
 もちろん人物だけではなく、闘争そのものに対しても小熊は同様の努力をおこなっている。たとえば三里塚闘争は、失われていく農村へのノスタルジーが反映していた運動であることを指摘し、機動隊を向こうにしてゲバ棒をふるう暴力の発露は、自己の実存を確かめる行為であったことを指摘する。

機動隊を殴りあうことで「生」のリアリティや「自分の存在証明」が得られること、口先だけの共産党や「大人たち」とちがい言行一致の決意を示せること、そうであるがゆえにゲバ棒とヘルメットというスタイルが人気を得たということである。(p494)

 僕が出会う現代の患者さんの病理は、この時代とそう変わってはいない。ゲバ棒をカッターナイフに持ち替え自分を切りつけることによって「実存」を確かめようとする人、コミューンの一体感が得られなくなった中で、つかのまの慰撫を求めてゆきずりの性的体験を求める人。
 そしてそうした若者にむきあう教授や総長といった大人達の姿に、治療者の僕が共有している弱さが重なる。大衆団交の中で狼狽する総長、自己保身に向かう教官、自己の専門性の中に閉じこもって対話を拒否する科学者、そして自分の意見の筋を通して、揺らぐことなく学生たちに立ち向かう教授。それぞれの大人に対して若者たちが示す軽蔑や敬意が、治療者である僕がとるべき姿勢を示唆してくれる。
 こうした人間心理を踏まえた理解をひとつひとつ煉瓦のようにつみあげて造られた、この堅牢な構築物の上に立つことによって、読者はパノラマ的に展開していく若者たちの不安定さと破壊性、そして人間の弱さを目の当たりにすることになる。人間的ふれあいを求めながら観念的な知的防衛に頼らざるを得ず、そして連帯を夢想しながら自らの破壊性によって崩れ去っていく未熟な若さ。その痛ましさに出会うとき、同じように脆く危うかった若き日の自分の姿がそこに見えてくる。
 そうした若さの危険性や暴力性に動じることなく立ち向かうだけの靱さが、治療者としての僕にあるのだろうか? そのように、自己を反省的に見つめさせる力がこの本にはある。
 本当に示唆にとむ一冊である。いまから下巻が待ち遠しい。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景
1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景小熊 英二

新曜社 2009-07
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