「晶文社が文芸部門閉鎖」というニュースを知って

 いつも愛読している「海難記」というブログで知ったニュース。植草甚一さんの本と「サイのマーク」で知られた晶文社が、どうやら「学校案内」などの本の発行に特化して、文芸部門を閉鎖するらしい。そして一般書、文芸書は在庫売り切りで終わり、なのだという。
 これにはショックを受けた。
 晶文社の本は、若い日の僕の心の大事な部分を占めていた。それはたとえばヒッチコックトリュフォーの『映画術』であり、あるいは長田弘の『深呼吸の必要』、そしてスタッズ・ターケル『よい戦争』であった。それらの本が僕のこころに与えた影響は、出会ってから20年以上たった今でもなお残っている。 
 草思社をはじめとして、昨年来、幾度となく流れた出版社の倒産のニュースもショックではあった。でも今回のニュースは、もっと切実な痛みを感じた。
 なぜかと言えば、晶文社が文芸部門を「棄てた」という事実が、晶文社の本にまつわる僕の大切な記憶まで「棄てられた」心持ちにさせたからだ。トリュフォーにあこがれ、彼の批評眼の鋭さを盗もうと、繰り返し読んだこと。長田の詩が持つ不思議な力を身につけたくて、暗誦を繰り返したこと。そんな懐かしい思い出までもが、価値のないものだと判断され、踏みにじられる思いがした。だから、どうにもこころが痛いのだ。
 都築響一さんのブログから。

経営判断、というのは便利な言葉ですが、思うに、ひとにも死に方があるように、会社にも死に方というものがあるのではないでしょうか。これだけの知的資源を持つ出版社が、いまさら文芸書を出しても赤字で潰れるだけ、ということもないと思うのですが、かりにそうだとしても、「晶文社的知性」という宝物を失ってしまうからには、むりやり延命するよりも、走り続けて、最後に前のめりに倒れてほしい、と思ってしまうのは僕だけでしょうか。(roadside diaries)

 もちろん晶文社も、従業員を抱えた一民間企業である。倒産という事態が引き起こす、印刷所や流通の方々に与える経済的混乱を考えれば、「採算がとれない部門の閉鎖」という冷徹な経営判断が働くのはやむをえないこと、ではあるのだろう。そういう意味では、都築さんの意見はセンチメンタルなもの、と言えなくもない。
 しかし、僕はそんな都築さんの感傷に、どうしようもなく共鳴してしまう。
 晶文社が目指しているのは、「学校案内」のようなインターネットで流布しているような断片的な知識を、集塊物として送り出し収益をあげる、というビジネスなのだろう。しかしそれは出版ビジネスであっても、決して「編集」ではない。
 ある著者の中で、あるいは社会の中で、つながることを欲している知性や豊かな感性の糸を発見し、そこに働きかけ、つながりをつけ、一つの形にして、世に送り出す。この「編む」作業こそが、編集の本質である。
 こうした「編集」という仕事は、キャッシュという対価を得るには、あまり効率のよい方法とは言えない。とにかくキャッシュを得たいなら、「出版ビジネス」をするほうが確かに効率的である。
 しかし多くの編集者は、キャッシュだけでなく、もっと別の次元での対価を得るために、地道な仕事にとりくんでおられるのだと思う。それは、読者のこころにうまれる変化、という価値である。
 編集されて世に出た作品は、読者のこころの中に、ある印象を残す。その印象が、読者の神経細胞のつながりの中に記憶として蓄えられる。もちろん、その多くは意識されない記憶として残るだろう。しかしそれでも、何年、あるいは何十年もの後まで、読者の言動に確かに影響を与え続ける。それが書物の生み出す価値なのだ。
 この価値は、キャッシュに転換できるものではない。でもキャッシュよりも、もっと確かなこころの「豊かさ」を生みだしていく。出版の数年後、あるいは数十年後に、読者のこころの中で生まれるであろう「豊かさ」こそが、編集者の方々が得ている本当の労働の対価である。
 もちろん、こうした「価値」は、マーケットで「価格」がつくものではない。でも気まぐれなマーケットによって値付けされる「価格」よりも、もっとゆるぎない「価値」を有している。
 目先の「価格」をとった晶文社は、こうした本当の「価値」を棄てているのだ。
 そうせざるをえない切迫した理由があるのだろうけれど、喪失感はあまりに大きい。
 どうにかならないのだろうか。
 活字の本をこよなく愛するものとして、岡崎武志さんの言葉を僕も唱和したい。

植草さん、地上はそういうわけなんです。お力、お貸し下さい。(okatakeの日記)