R.D.ストロロウ著、和田秀樹訳『トラウマの精神分析』

 2009年に岩崎学術出版から刊行された一冊。原書は2007年にThe Analytic Pressから。
 ストロロウの最近の考えを知るのに良い本。ハイデッガーの考えを読み解こうとした6章は内容的にこなれていない印象があるが、あとの部分はreadableで面白く読める。
 この本では、妻との死別で生じた彼自身の喪失感を、必死で乗り越えようとして生み出された思考が述べられており、その真摯な態度に感銘を受けた。
 ここでは第5章(pp35-46)「トラウマと存在論的無意識」に述べられている、言語という象徴が精神の発達上どのような役割を果たしているか、についての彼の考えをまとめておく。(囲みは私がまとめた文章で、引用ではありません)

 まずストロロウの想定している情緒発達の図式は、以下のようなもの。

 情緒体験は、発達早期はもっぱら身体的なものとして体験され、表出される。それを養育者が適切に汲み取り、言葉を与えることによって、身体的な情動体験と言語表出とが連絡されるようになる。その繰り返しの中で、子どもは情緒体験を象徴を用いて表出することができるようになる。その一方で、そうした象徴で表現されない部分が、無意識を形成していく。この際、情緒体験を象徴を用いて表出することが、養育者との関係を傷つけると予測される場合、言語を用いて表現されないことが多くなり、抑圧の程度が強くなってしまう。

 こうした理論構築の際、ストロロウはKrystalが定式化した情動発達の発達ラインに関する仮説(Krystal, H.1974 Genetic view of affects. In Integration and self-healing(pp38-62), The Analytic Press)を援用する。Krystalの主張は、情動の発達には二つの発達ラインがある、というものだ。その二つとは、以下のようなもの。

1)情動が区別されるようになる:快と不快だけしかないprimitiveでぼんやりした情動状態 → 多くの情動が区別できる状態、
2)情動の非身体化と言語化が進む:身体的な表出→言語的表出。

 この考えに立脚して、ストロロウは以下のような主張を行う。

 こうした発達ラインにそって情動の発達が進むためには、身体的に表出される情動の意味を、養育者が適切に汲みとって、妥当な言葉を与えることが必要となる。こうした養育者の反応を欠いた場合、この発達は頓挫して、情緒体験が未発達でまとまらない状態のままにとどまることになる。

 そして彼は、この発達が頓挫すると、その人は、自分がいきている実感が持てない状態に陥る、と言う。このような「存在の感覚の喪失」を表すための言葉として、彼は「存在論的無意識ontological unconscious」という言葉を提唱する。この主張の背後には、「自分である感覚、自分の存在感覚が芽生えるためには、身体性と象徴性が統合する必要がある」という彼の想定が存在している。この想定を、彼はデカルトのcogitoをしゃれて、I feel, therefore I am.とまとめている。(この辺はDamasioの主張とかぶるところだ)。

トラウマの精神分析―自伝的・哲学的省察
トラウマの精神分析―自伝的・哲学的省察R.D. Stolorow

岩崎学術出版社 2009-12
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