フランクルのロゴセラピーについて

 フランクルのロゴセラピーを把握する必要があって、彼の本を4冊読んだ。みすず書房の『夜と霧』(1947)、『死と愛―実存分析入門』(1946)、春秋社の『それでも人生にイエスと言う』(1947)、『意味による癒し』に目を通した。『夜と霧』は感動的な名著だと再認識したが、ロゴセラピーについては臨床にあまり役立たないのではと感じた。

 よく知られているように、フランクルナチス強制収容所を生き延びた。その体験の中で、人間にとって「希望」を持ち、「生きる意味」を確かめ続けることがいかに重要であるかを彼は痛感した。
 この実感を基礎にして、彼は、人間が精神的な病に陥るのは「生きる意味」を喪失するためであり、そこから回復するには「意味」を見いださねばならない、という考えを提示することになった。
 この考えに基づいた介入は次のようなものだ。フランクルの関わっていたある患者は、片方の足を失い嘆き悲しんでいた。

 みじめな姿で苦労して、一本脚で部屋のなかを雀のようにひょこひょこと跳びまわりはじめました。そのとき、彼は突然はげしく涙を流しはじめました。・・・「こんなことには耐えられやしない。こんなになって生きていても生きている意味がない」とうめくようにこぼしました。

 この嘆きに対してフランクルは、次のように応答する。

 あなたが、短距離か長距離のランナーだったらもうおしまいです。でもあなたは、これまでの生涯をたいへん意味のあるものにしてこられた人です。・・・そんなあなたのような人まで、ただ片脚をなくしたからといって生きる意味もなくしてしまうのでしょうか。

 つまり彼は、患者が生きる意味を喪失し自殺を考えている場合、「あなたは生きる意味を探せるはずです」と鼓舞することによって、意味の探索へ、そして生きることへと誘い込もうとする。こうした積極的な態度をフランクルがとることによって、この患者は生きる意味を発見する道へと回帰することができた。つまり、とりあえず治療は成功したようである。
 こうした積極的な治療的態度を是とする根拠は、彼の次のような確信にある。

自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。(p46)

 あるいはこんなことも言っている。

 生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです(p25)

 こうした彼の信念は、強制収容所という地獄の体験を生き抜く上で、大きな支えになったに違いない。そしてフランクルの生き方に同一化しうる準備性がある患者にとっても、大きな励ましになったのであろう。
 しかし中には、こうした励ましについていけない患者もいたはずだ。その場合、治療者に従うことができない自分に対する自己否定感が強まり、結果的に自殺に追いやられてしまったケースも多数あるのではないだろうか。そもそも「死にたい」といっている人に、「生きることは義務だ」ということほど残酷なことはない。
 そうした視点から考えれば、フランクルの治療論は射程が短いものと評価せざるを得ない。そして、こうしたフランクルの主張の弱さは、意味の生成に関する発達論的視点を、彼が提示しえていないことから生まれているのだと思う。

夜と霧 新版
夜と霧 新版ヴィクトール・E・フランクル 池田 香代子

みすず書房 2002-11-06
売り上げランキング : 1114

おすすめ平均 star
star収容された人の人生
star人間というものを客観的に見つめなおす
star自分自身への鞭