「○○派」と自己規定することの問題

 米国の精神分析家Ogden,T.H.の『This art of Psyhoanalysis』(2005年刊、Routledge)を読んでいたら、印象的な一節に出会った。

 The interpretations made by an analyst who is wed to a particular ''school'' of psychoanalysis are frequently addressed to the analyst himself (to his internal and external objects) and not to the patient. (p11)

 精神分析的な治療者の中には、自分を○○派として規定することで、たしかなアイデンティティを確立しようとする人がいる。もちろんそれが治療者に自信をもたらし、その人の思考を自由にしてくれることに役立つのであれば、この自己規定は悪いことではないだろう。
 しかし普通、そうした○○派としての自己規定は、○○派以外の考えから学ぶ態度を失わせることとなる。この閉鎖性は、○○派である自分の価値を高めるために治療が用いられる危険性を招来してしまう。
 この○○は何だっていいのだが、とりあえずイメージしやすいように「クライン」としてみよう。あるクライン派の治療者が、患者に解釈を述べるとする。このとき、「自分はクライン派だ」という自負が高ければ高いほど、クライン派としての自分を安心させるために、そしてその治療者のこころの中に存在するクラインや、自分が指導をうけたクライン派分析家におもねるために、「クライン派」的な解釈を述べたくなってしまう。そうした解釈は、治療者のクライン派としての自己愛を高めるために役立ちはするだろうが、患者に変化をもたらすことにはほとんど役立たないだろう。
 ○○派として自己規定することのリスクは、ここにある。そしてこれは分析家だけの話ではない。たとえば、自分を○○療法家だとか、○○専門医だとか、そうした自己規定をすることによってナルシスティックな満足を得ようとする治療者全般にあてはまるリスクであると思う。

This Art of Psychoanalysis
This Art of Psychoanalysis: Dreaming Undreamt Dreams And Interrupted Cries (New Library of Psychoanalysis)Thomas H. Ogden

Routledge 2005-11
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