講演録:災害時のこころのケアについて(1)

前置き

 先日、ある方から「被災地で支援活動する予定のある一般の方を対象にして、被災者へのこころのケアに関する講演をしてほしい」と依頼されました。なんで私が、と思ったのですが、いろいろな行きがかり上、引き受けざるを得なくなりました。「緊急企画」とのことで、依頼から講演当日まで5日しかなかったのですが、何とか無事に講演を終えることができました。
 準備のときは必死になって何も考えずに作業を進めたのですが、終わった後になって、せっかくつくった原稿を、そのまま眠らせるのが惜しい気もしはじめました。そこで思い切ってこのブログに掲載することとしました。
 掲載にあたっては、講演での読み上げ原稿にかなり手を入れています。内容については、既に発表されている各種学術団体のガイドラインや、災害精神医学の教科書を参照して、それらと齟齬のないように留意しましたが、ただ私の個人的な意見が含まれた内容ですので、あまり信頼しないで読んでいただければ幸いです。参加者は、被災地で活動される予定の方々でしたので、そのような方に向けた内容になっています。参加者の具体的な職種をあげておくと、医療や福祉、教育関連の方々、あとは消防などの自治体関係者もいらっしゃいました。
 なお分量が多いので、分割して掲載します。原稿をかなり修正しながら掲載していきますので、全部掲載するのに時間がかかると思いますが、その点についてはおゆるしください。

1 はじめに

 今回、このような主題について、被災地で活動される予定の皆様に話す機会を与えていただき、大変感謝しております。今回の震災に対して私もお役にたてることがないかと思っておりましたので、今回このような機会を得ることができて、とてもうれしく思っております。
 ただ、私はこの場所でお話しするのに、あまりふさわしい人間だとは思っておりません。といいますのは、私は民間病院の一般精神科臨床に従事している精神科医であって、災害精神医学を専門的に研究しているわけではないからです。また実際の災害支援の経験としても、阪神大震災のときに少し支援をしたことがある程度ですし、今回の震災についても支援にいったわけでもなく、ただ報道やインターネットを通じて断片的に知っているだけです。ですので本来ここでお話になるべきなのは、災害精神医学の専門家の先生だと思っています。しかし現時点では、災害精神医学の専門家の先生方は現地での活動で忙殺されていらっしゃるでしょうし、講演をお引き受け頂くことは当面は不可能な状態にあることも理解しています。人手が十分ではないこのような非常時には、自分の専門でないからといって主催者からの御依頼を固辞することは道義に反すると考え、思い切っておひきうけすることにいたしました。
 ただ、私は災害精神医学の専門家の先生のようなお話をすることはできません。また災害精神医学の教科書にかいてあるようなことを、自分の中で咀嚼しないままに、ただ右から左へとお伝えすることも、あまり意味のあることとは思えません。そこで何をどう話すべきか考えたのですが、私ができることは、災害精神医学の知見を、私の臨床的実感と結びつけながら話すことしかないと最終的に思い至りました。私は普段の臨床の中で、過去に災害や事故や虐待などを体験し、それがトラウマになって精神的な不調に陥っている方を沢山みておりますし、そのような臨床を通じてトラウマが人のこころに与える意味や影響についてよく考えています。そしてどういう援助を行えばよいのか、ということについても、できるだけ原理的に考えるようにしています。
 そこで今日は、私が学んだ災害精神医学の知見を、私が普段の臨床を通じて考えていることとできるだけ結びつけながら、援助の原理的な地点まで立ち戻りつつお話ししたいと思います。

2 こころのケアとは何か

 今日は「災害時のこころのケア」について話しますが、その前提として、そもそも「こころのケア」とは何か、というところから話したいと思います。
 今回の震災の報道では「被災者へのこころのケアが大切だ」という主張をよく見かけます。これ自体は大変よいことだと思いますが、ただ一つ気になる点があります。それは、そうした主張が、今までの被災地支援では「こころのケア」が行われておらず、それゆえ専門的な「こころのケア」を新しく行わなければならない、というような文脈でなされていることが多いと感じる点です。
 私はそうした考えには問題があると考えます。というのは、震災発生時から現地で既に行われているさまざまな援助の中には、多くの「こころのケア」が含まれているはずだからです。それなのに、さきほどのような考えが示されると、自然に行われている「こころのケア」に十分な注意が払われなくなり、外部からの専門家が行う「こころのケア」だけが称揚される恐れが高まってしまう問題が生じてしまいます。
 この点についてもう少し詳しく理解するために、「ケア」とはどういうことか考え直してみましょう。「ケア」、つまり英語のcareという言葉を英英辞書で引いてみますと、まず第一に、気にかける、心配する、という語義が書かれています。おそらくそのような語義を基盤にして、人を世話をするという意味の語義が生じ、さらに医療や福祉の領域で「ケア」として概念化されるようになった専門的な対人援助もこの言葉で指すようになったのでしょう。こうした語義の展開から言えることは、あらゆるケアには「他者を気にかける」要素が含まれている、ということです。
 ここで「ケア」の原型の一つである、おかあさんによる子どものケアについて考えてみましょう。まず、お母さんのそばに、泣いている赤ん坊がいるとします。するとお母さんは、その赤ん坊が感じている不快な感覚を受け止め、その気持ちを忖度して、だっこしてあげたり、おむつをかえてあげたりして、なんとか赤ん坊が穏やかな気持ちになるように努力をするでしょう。そして、最終的におっぱいをあげることで、泣き止んだとします。このとき、おむつをかえたり、だっこしたり、おっぱいをあげるという具体的行為ももちろん大切ですが、その背後に、お母さんが赤ん坊のことを気にかけ、その気持ちをうけとめるという心理的行為が大きな役割を果たしていることに注意を向けてください。たとえば母親のケアを、おむつかえロボットや授乳ロボットが同じ行為をする場合と比べれば、そこで生じる赤ん坊の安心感には大きな質的差異が生じますよね。単に機械的に欲求不満が満たされるだけでは不十分で、そこに赤ん坊のことを気にかける人がいて、不快な気持ちがその人にうけとめられる体験を通じて、赤ん坊の中に安心がうまれ、その安心感を基盤にして、赤ん坊の中に人として成長していくのに必要な力が展開していく。つまり具体的な援助行為の背後に作動している、他者の苦しみをcareする−他者の苦しみを気にかけ、それをうけとめ、やわらげようとする−心理的な能動性の存在によって、その具体的行為は「ケア」として機能し、相手のこころを落ち着かせ、内なる発展性を展開させることにつながっていくのだということです。
 この理解を、今回の震災にも敷衍することができます。報道などのメディアを通じて被災者のおかれている現状を知りますと、こころ苦しい思いがわいてくる方が多いでしょう。そのように、遠隔地にいる人でも被災者の状況を想像することによって、その苦しみを一定程度は実感し、被災者の苦しみをなんとか和らげてあげたいという気持ちになります。そうした気持ちに突き動かされて、ある人は義援金を投じ、ある人は支援物資を送り、ボランティア活動に身を投じたりする。さらに専門的な職能をもっている人は、それぞれの専門性、たとえばある人は医療を通じて支援を行い、ある人は道路やライフラインをなおし、ある人はチャリティサッカーをすることを通じて、被災地の人たちの苦しみを和らげようとする。被災者は、その具体的行為にこめられている多くの人たちの心理的努力を感じ取り、大きく励まされることで、復興へ向けて必要となるこころの力を再獲得していく。そういうこころのプロセスが作動しているはずです。
 つまり、苦しんでいる人の気持ちをくみ、その苦しみをやわらげようとして示される言葉や態度、そして具体的援助には「ケア」の要素が必ず含まれており、そうした「ケア」が行われることによって、相手の人のこころのある部分はいやされ、勇気と希望とがとりもどされていく。このようなプロセスが、さまざまな場所でひろく生じているのが現状なのだと思います。
 そのように理解すると、こころの専門家が行う援助でなくとも、そのような意味での「こころのケア」は既に被災地で広くおこなわれていることになります。だとすれば、「こころのケアが大切だ」とよくいわれるフレーズは、「専門家による心理的な援助が大切だ」という意味で理解されるべきではなく、「被災地支援を行う際には、支援にあたる一人一人が被災者のこころをていねいにくむ努力をした上で、援助を行うことが大切だ」という文脈で理解されるべきだということになります。
 「こころのケア」は、専門家にまかせればよいものでは決してありません。今回のような広域にわたる甚大な災害ではなおさらのことです。ですから被災地支援に出向かれる皆さんが、皆さんのできる範囲で被災者のこころを想像し、その苦しみをやわらげる方法を模索しながら、現地で活動していただくことが、もっとも大切な「こころのケア」だということを、ぜひ理解してください。

3 専門家と一般市民の協働について

 ここまでで、現地で活動する人全員が、援助行為に含まれている「こころのケア」の側面を意識して行うことが大切だということをお伝えしてきました。しかし、次の疑問が浮かんできます。それなら専門家の役割はいったい何なのか。一般の支援者は、専門家とどう協働すればよいのか、という問いです。そのことについて考えてみましょう。
 現地で活動する一般の方が、被災者の気持ちを忖度して活動しようとする場合、ある問題が生じます。それは、日常的な感覚にもとづいて被災者のこころを推測する場合、そこには誤解が生じやすいという問題です。人間は一定程度、他者を共感的に理解する能力を有していますが、しかし他者の心理を完全に正確に理解することはできません。たとえば普通の生活の中でも、相手に対してよかれと思って行うことが、親切の押し売りのようになって、相手につらいおもいをさせることがありますよね。
 もちろん専門家であっても、間違った理解をすることが多いのは事実です。特に、私のように今回の被災者と直接接していない専門家の理解は、誤謬を多く含んでいる可能性があります。逆に活動中のボランティアの方のほうが、現地で直接被災者の方とかかわっておられる分、より正確な理解をされていることも多いと思います。
 しかし専門家には、ある優位点があります。それは、その領域で過去になされた学問的蓄積や個人的経験の蓄積にアクセスしやすいという点です。実際、災害精神医学と呼ばれる専門領域には、災害時に人はどのような心理的体験をするのか、そしてそれに対してどのような援助を行えばよいのか、ということについての、膨大な経験と理解が蓄積されています。専門家は、そうした先人の多大な努力を参照することによって、今回の震災のような外傷的体験をこうむった人のこころを、より高い精度で理解することが可能になります。
 そのような優位性があることを考慮すると、一般の支援者と専門家は、次のように協働することが望ましいと言えます。まず専門家は一般の方に対して、被災者のこころの理解について基本的情報をお伝えし、ケアの大まかな道筋をお示しする。一般の方は、そうした情報を参考にしながら、目の前の被災者のこころを理解しようと努力し、その理解にもとづいて援助を工夫する。その中で手に負えないような問題にぶつかった際には専門家に紹介する。このような協力関係を構築することが望ましいと考えます。

(続きます)