『異邦人』におけるムルソーの誠実さについて

 カミュ異邦人』を読んで思ったこと。昭和41年改版の新潮文庫で読む。
 過度の単純化という誹りを覚悟しつつ述べるならば、主人公ムルソーは、ある種の自閉症的世界にに生きている人だ。ムルソーは、母親の死に際しても情緒をうまく体験することができず、泣くこともない。しかし彼は冷酷な人でもなければ、非情の人というわけではない。彼の情緒は、たとえば次の場面で微かに動いていることが確認できる。母の棺のふたをあけようとする門衛を、ムルソーはひきとめる。

「御覧にならないですか」というから、「ええ」と私は答えた。こういうべきではなかったと感じて、私はばつが悪かった。(p10)

 母の死へ、そして母の遺体へムルソーは無意識的に距離を取ろうとする。この拒否の背後に、彼のこころの中でかすかに作動している恐怖を認めることができる。しかし同時に、拒否したことが、門衛にどう受け取られるか妙に気になったりもする。この不自然な他者への過敏性は、時に被害的な世界認識へと転化する。母のところに訪れてくる養老院のひとたちを、ムルソーは次のように認知する。

 彼らが私を裁くためにそこにいるのだ、というばかげた印象が、一瞬、私を捕えた。(p14)

 情緒を体験できず、母の死を消化することができないムルソーは、葬儀の翌日にマリイと再会し、喜劇映画を見て、その後に性交渉を持つ。そして一週間後のマリイとの逢瀬での以下のやりとり。

 彼女が笑ったとき、私はふたたび欲望を感じた。しばらくして、マリイは、あなたは私を愛しているかと尋ねた。それは何の意味もないことだが、おそらく愛していないと思われる−と私は答えた。(p39)

 他者と情緒が通うことによって、情緒や存在に意味がうまれる。しかし彼は、この意味を理解することができない。こうしたムルソーに、周囲の人々は当惑といらだちを隠せない。しかし、ムルソーはおそらく彼なりに誠実に生きようとしている。彼の行動と思考には、確かに一貫性が存在しているのだ。その一貫性の中で、殺人という悲劇が起こってしまう。
 この犯罪行為に対しては、裁判の中で一般道徳的な視点から激しい非難が浴びせられる。しかしムルソーの誠実さを理解する人が、彼の周囲にいないわけではない。たとえばムルソーの知人マソンは、裁判の席で彼を評してこのように言う。

 それからマソンの番になって、あれは律儀な男だ、あえていうなら、誠実な男だ、と述べたが、もう誰もほとんどきいてはいなかった。(p101)

 このマソンの評価は正しい。つまりムルソーは、彼の倫理に従って誠実に行動したのだ。しかしこのムルソーの誠実さを理解しようとする人はほとんどおらず、「普通の人」の感覚と倫理によって裁かれ、最終的に死刑判決が下される。
 そして死刑執行を待つムルソーは、はじめて父のことを思い出す。ある犯罪者の死刑執行を見に行った父の記憶。この父に関する唯一の記憶を手がかりにしてムルソーは父に自分を重ね合わせ、そして宗教的な倫理観を押しつける司祭に対して、激しい怒りを爆発させる。この怒りの発露を通路にして、彼は世界とのつながりをわずかに回復する。

 あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。(p130)

 『異邦人』刊行から約70年がたった今日でも、情緒をうまく読み取れない他者etrangerの苦しみを共感的に理解しようとする人は、おそらくほとんどいない。そして端から見れば奇矯で理解不能な振る舞いの背後に、その人なりの誠実さが存在することを信じられる人が、いったいどれだけいるのだろうか。

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