間主観的な治療の進め方−サイコセラピーとコンテクスト理論

間主観的な治療の進め方―サイコセラピーとコンテクスト理論

間主観的な治療の進め方―サイコセラピーとコンテクスト理論

 近年の米国の主要な精神分析学派の一つである間主観性学派の代表的論客である著者らが、彼らの学説の概要とその理論的基盤の簡明な解説を行い、さらに臨床例とリンクさせて説明したコンパクトでよくまとまった概説書である。

目次
第1章 間主観性理論と臨床場面でのやりとり
第2章 テクニックを越えて−プラクティスとしての精神分析
第3章 中立性神
第4章 存在しないことのコンテクスト−個の崩壊の体験の多様性
第5章 コンテクストで考え、作業を進めること

 第1章では、間主観性理論の概要を紹介している。著者らはまず間主観性理論の独自性を明らかにするため、システム理論や対人関係論との差別化を行った後、間主観性を次のように定義する。

「間主観的に形成された2人の体験を共に解読することにより、その内の1人の情緒的体験のオーガナイゼーションを理解しようとする、2人による対話を通しての試み。それが精神分析とするのが、間主観性理論である。」(p3)

 そしてこの理論の起源を、初期現象学(意思を持つ主体の研究−ただ後の現象学は、人間存在の間主観性を閑却し、人間の体験をすべて主観的体験とみなすようになってしまったと批判−)とコフート(欲動理論を否定し、自己の体験がコンテクストに影響を受けると考えた彼の確信)の二つにあると述べる。さらに英国対象関係論の影響も受ける中で、著者らは最終的に自己について「主観と主観の相互作用の中で、その函数の一つとして発達し、保持される」(p5)ものだと考える見解を打ち立てた。
 この自己観に基づいて、著者らは精神分析の実践を「間主観的な場」とみなし、それが患者にとっての「第2の発達のチャンス」となるという。その点についてさらに詳しく、精神分析によって「新しい、より柔軟なオーガナイジング・プリンシプルの出現可能性が生まれるばかりか、そこで出現するオーガナイジング・プリンシプルは自省の対象となりうるので、患者のレパートリーは広がり、豊かになり、またより入り組んだものとなる」(p7)と説明を行っている。それゆえ、精神分析の臨床場面における間主観性とは、他者との情緒交流に対する「感性sensibility」にほかならないとも述べている。
 さらに治療者が行う情緒的作業は、「相手の体験の中に入り込みそこに我が身を浸すことではなく、間主観的なスペースにおいて他者と合流する」ことだとも述べている。

 第2章では、フロイトらによる精神分析の科学化に対する批判を行っている。1900年初頭の時代精神の影響を受けて精神分析では、対象を客体化することが可能であり、その関連要素を変数として操作することができるという前提にたっていた。そうした前提に立った場合、テクニックが重視されることになる。しかしそうした前提は人間の心理に対しては適用することがそもそも無理なことであり、それゆえ「テクニック」に固執することは反治療的である。それよりも精神分析を「プラクティス」とみなすことがのぞましい、という。
 ここでアリストテレスを引き合いにだし、彼の知識とreasoningの分類−エピステーメ(一般概念に関わる、数学など)、テクネ(生産に関連する知識)、フロネーシス(プラクティカルな推論)−を準拠枠としつつ、精神分析はこのフロネーシスにあたると述べる。
 これに関連して、分析家の自己開示について言及する。分析の臨床では、常に分析家の自己のある面は開示されており、「意図的な」自己開示の是非を、個々の事例に則さないで述べることは意味はない。というのも、精神分析はプラクティスであり、全事例に適用できるテクニックを語ることはできないからである。そして「自己開示やそれ以外の分析的行為についての特定の決断は、そうした決断の患者と分析家にとっての相互交流的な意味が、そうした目標を促進しそうかどうかの評価に基づいてなされる必要がある。」(p41)と、精神分析の目的に照らして各事例毎に評価がなされるべきだという見解を出している。

 第3章では、著者らの観点から、中立性に対する批判を行っている。「示唆なき解釈という神話」「汚染なき転移という神話」「客観性神話」「隔離されたマインドという神話」といった項目別に精神分析の中立性について批判を行い、中立性の代わりに「共感的・内省的探究」という治療スタンスが有用だと提起する。

 第5章では、間主観性理論を思想史上に位置づけようと試みている。デカルトにはじまる近代的自我の概念を批判する一方で、現象学ゲシュタルト理論、マンハイム、ガダマー、バフチンヴィトゲンシュタインらに寄せる思想的親近感を吐露する。
 精神分析の他学派との関連についても述べている。具体的には関係学派とは比較的近縁であることを認めているが、しかし関係学派が発達上のコンテクストの検討を軽視している点を批判し、横断的な理解とともに時間縦断的な理解も重視すべきであるとして、関係学派との差異の明確化につとめてもいる。

 全般を通じて記述は平明であり、主張も明快である。人間存在の間主観性というのはその通りであると思うし、治療者患者間の自由な情緒交流を少しずつ可能にしつつ、その理解を進めていくことそのものが、患者の発達を促進していくといった著者らの中心的主張は、私の臨床的実感にマッチするものである。
 ただそうした過程を促進する治療者の機能について、つっこんだ検討はされていないようだ。唯一ウィニコットのplayingの概念を援用して、遊ぶことができる能力が必要だとは述べてはいるものの、それ以外の要素については明確にされていない。これは精神分析は「プラクティス」であるから、治療者、患者の個別性に大きく依拠するものとして検討する必要がない、ということになるのだろうが、そうしたやや抽象度の高い主張に終えてしまっては、彼らの主張が臨床家にとって結局空念仏に終わる可能性もあるのではないだろうか。美点の多い本ではあるが、その点が物足りない気がする。