藤山直樹編『ナルシシズムの精神分析』を読む

 藤山直樹編『ナルシシズムの精神分析』を読んだ。2008年10月刊。
 狩野力八郎先生の還暦を記念して刊行された論文集で、狩野先生に指導をお受けになった方々の筆になる論文が収められた一冊である。一つ一つの論文は、堅苦しくなく自由な体裁で書かれている。主題のNarcissismという言葉の訳語も著者によって「自己愛」だったり「ナルシシズム」だったりするなど、統一性を重んじるというよりそれぞれの著者の持ち味を生かした編集となっていて、その多様なスタイルが面白い。いずれの論文もそれぞれの美点を持っているが、とりわけ細澤仁氏の論文が光って見えた。
 しかし一冊の論文集として刊行される以上、単に論文の集合体としてではなく、全体として一つのまとまりをもった構成にしつらえられる必要があるわけだが、この作業で編者がかなり苦心した跡が窺える。編者によってこの本の刊行の趣旨や全体像が提示された「まえがき」が巻頭に据えられ、編者自身の意見が示された「ナルシシズムについての覚書」という論文が巻末に置かれているが、こうした配置は、この二論文を端にして張った糸で全体を編みあげようとした藤山氏の意図の表れだと理解できる。しかし収められた諸論文があまりに多様であるため、それを一つの本として統一的に編み上げようとしてもそれは実際には困難で、そのためか巻末の論文が藤山先生にしてはいつになく断片的なものになってしまっている。これは現在の日本の精神分析界がきわめて多様なものとなっていることと、それを統一的に把握することが困難になっている現状が、ここに再現されているのだと理解した。
 もちろんこうした現状を否定的に見る人もいるだろう。しかし私は、悪いことではない、と考える。現在の代表的な、最も豊かな見識を有する分析家をもってしても、束ねきれないほどの広がりがあるということだからだ。そして豊かな多様性の母胎は狩野先生の学徳にあるわけで、そう考えると狩野先生の業績の重みというものが本当に痛感される。 
 あえてこの本に注文をつけるとすれば、日本で発行されるナルシシズムの本なのだから、その訳語についての検討がもっとなされてもよいように思った。「自己愛」と訳されたself loveとnarcissismの違いや、「自己」「愛」という訳語自体の妥当性など、いろいろと論じるべき点があると思う。しかしこの本の中でそのテーマについては、藤山氏によって10行ほどあっさりふれられている(p143)だけにしか過ぎない。そこが残念なところで、どなたか歴史に明るい方が整理した総説がもう一本あれば、この本の奥行きがもっと広がったであろうに、と感じた。もしそうした総説が書かれるのであれば、一般社会に流布している「ナルシスティック」という言葉をも考察の対象にしなくてはならないだろう。というのも、この本の著者の多くが「自己愛的」という言葉を使ってしまう理由の一つとして、一般社会でも「ナルシスティック」とか「ナルシスト」という言葉が既に流通しており、この言葉の持つイメージの喚起力が強いため、われわれがナルシシズムという言葉を使おうとすれば、そうした一般用語としての「ナルシシズム」に輪郭を切り取られてしまうために、「自己愛」という言葉を選択せざるをえなくなっていると考えられるからだ。臨床を重視する学会であれば、学会内部だけで用語の外延を決定していくのは問題がある。というのは、臨床家がこの社会の中で生活し、学問的知見を一般の人々とも共有していこうとする姿勢を有しているのであれば、臨床家の言葉は学会内部の議論だけで成立しうるはずはなく、社会の影響も受けて言葉の外延が変化させられていくはずだ。そうした交流を無視するのでなく、それを受け入れた上で専門家としての洗練させた定義を示していくことが必要なのだと思う。

 さてさて、「思春期」「家族」というテーマをすませたレクチャーですが、次は「老いと死」というテーマでまたもや2週間後。考えると少し憂鬱だが、できる範囲でしっかり準備しよう。