フロイトS.Freud著『精神分析療法の道』を読む

 すみません、フロイトの技法に関するマニアックな話題が続きます。ちょっと興がのってきたので、しばらく続ける予定。

 さて『想起、反復、徹底操作』の次に重要な技法論文である、1919年の『精神分析療法の道』も見ていく。小此木啓吾訳、1983年刊の人文書院版で読んでいく。この論文にも、『フロイト郵便』の親切な正誤表がある。

 この論文は、ブダペストで開催された第5回国際精神分析学会での講演での発表内容を、1919年の国際精神分析学雑誌に掲載したものである。ということは講演原稿は、フェレンツィのお膝元で読み上げられたものだということになる。

 冒頭、この論文の目的が、治療法の変遷について過去を振り返り、未来を展望することにあることが示される。まず過去を振り返る中でフロイトは、分析家の仕事を「神経症患者の内部にある無意識的な、抑圧された感情を患者に教え知らせること、そしてこの目的のために、自己自身についての知識が、このように拡大されることに反対する彼の内部にある抵抗を発見すること」(p127下)だと定義する。そしてこの目標に到達するために、分析家は次のような作業を行うべきだと述べる。

・・・われわれは、分析医個人に対する患者の転移を利用して、幼児期に成立した抑圧過程の不適切さ、もっぱら快楽原則を追い求める生活の不可能さに関する(現実原則に基づいた)われわれの確信を患者にも確信させることによって、その目標に到達できると期待している。以前患者にあった病的な葛藤に代えて、われわれは、新しい葛藤の力動的関係によって患者を導く・・・(p127)

 こうした理解をふまえてフロイトは、解釈を通じて、患者が抑圧している心的内容が意識化される作業のことを「精神分析と名付けた」(p128上)と説明する。その上で彼は、精神「分析」と名付けたことについて、この治療の本質は、複雑化した人間の精神の要素を分解して見分けられるようにする作業にあるのだから、「分析」と呼ぶのが妥当だ、と主張する。
 しかしこの考えには批判がよせられた、という。精神分析の作業は「綜合」という局面を含むのだから、精神「分析」と呼ぶのでなく、精神「綜合」Psychosyntheseと呼ぶべきではないか、という批判だ。この批判に対してフロイトは、精神「綜合」は分析家がとりくむべき課題ではない、と述べる。なぜなら、分析家が患者の心を要素に分解しさえすれば、それらの要素を意図的に綜合しようとしなくても、患者の心の自動的な働きによって自然に綜合されていくものだ、と主張する。

 ・・・分析治療を受けている者の中で、精神綜合はわれわれの関与なしに、自動的、不可避的に行われる。症状の分解と抵抗の解消とによって、われわれはその綜合過程の条件を創ったのである。(p129下)

 フロイトは、この「綜合」、あるいは統合する心の力に非常に大きな信をおいており、どんな人間にもこの統合能力が生来的に備わっている、ことを信じて疑っている様子はない。これはいわゆる「葛藤モデル」に基づく人間理解であり、統合への能力が著しく障害されている人については、フロイトは基本的に想定していない、あるいは治療対象としてみていない、ことになる。
 そして患者が統合へと向かう力は、患者の中からだけわいてくるものだと見ており、治療者が有している「統合しようという意志」が患者に影響を与えることについては特に顧慮している様子はない。

 さてこのあとフロイトは、フェレンツィが1919年の論文の中で提唱した「分析医の『能動性』」について意見を述べることになる。ここが本論文の主張の中心部分になり、注目すべき論点が多数提示されるのだが、これはまた明日に。