自己決定について

 必要があって、「自己決定」について少しまとめておきたい。

 関連するサイト
Autonomy - Wikipedia
Personal Autonomy (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
Autonomy in Moral and Political Philosophy (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
AUTONOMY
 近年では、一般医療において患者の自己決定を尊重するようになっている。これはBeachampとChildress(Principles of Biomedical Ethics, 2001,Oxford Uni Press)が定式化した「臨床倫理の四原則」の中にも含まれている。もちろんこの原則に含まれているから正しいといえるわけではない。

1)自己決定とは何か
 まず自己決定とは何か。自律性、自由とどう違うのか。
 「自律」は広辞苑によると、

自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。

 「自己決定」は広辞苑には項目がなく、世界大百科事典では「個人主義」の項目で以下のように説明されている。

自己決定ないし自律とは,個人が周囲に依存しないで,ひとりで熟慮し,意思決定を行うのが望ましい,という価値観である。

 「自由」は、広辞苑では

(freedom; liberty)一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。・・・

 こう並べてみると、自由は束縛がない状態であり、自律はその達成に主体的努力が必要とされる積極的な心的行為、という違いがあるようだ。しかし自律と自己決定は、世界大百科事典では区別されておらず、基本的には同じ概念を呼び変えたものだとされている。一方、児玉聡氏はこの違いを氏のサイトAUTONOMYで説明している。

2)なぜ自己決定が重要なのか
 なぜ、自己決定を重視することが大切なのか。
 たとえば、法で保障されているから、という見方もありえる。
 北村總子氏と北村俊則氏は、著書「精神科医療における患者の自己決定権と治療同意判断能力」の中で、精神疾患を有するものの自己決定権は、法的には日本国憲法13条(「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」)によって保障されるとしている。

日本国憲法第13条 - Wikipedia
 しかし、法はその集団の志向性がまずあって、それが法文としてまとまったものであるから、より重要なのはその法文を必要とするようになった理由である。

 思想史上にその起源をもとめるなら、Kant(1724-1804)とMill,J.S.(1806-1873)ということになる。
 Kantの場合、人間はその存在自体価値がある、と考える。よって何かの手段として他者を用いることはあってはならないとされている。その場合、ある人の自律性が損なわれることは、その人が手段として用いられていることになるから、倫理的には問題があるとみなされることになる。だから自律性、自己決定が重視される。

 一方、Millは以下のように述べる。

各人が自分の好む生き方を選べるようにする方が、幸福な生き方についての他人の判断を各人に押しつけるよりも、人類は大きな利益を得られるのである。(自由論、山岡洋一訳p34,光文社)

 人が自分の好む生き方を自ら決めていくことが、人類にとって利益がある、という功利的立場から彼は自由に価値をおいている。
 しかし自由を無制限に認めるべきだ、とは主張されていない。

 この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。・・・人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。・・・個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関係する部分だけである。本人だけに関係する部分については、各人は当然の権利として、絶対的な自主独立を維持できる。自分自身に対して、自分の身体と心に対して、人はみな主権をもっているのである。(自由論 山岡洋一訳、P27-28、光文社)

 ここで述べられているのは、いわゆる「危害防止原理」Harm principleである。

危害防止原理についての児玉聡氏のまとめ
THE HARM PRINCIPLE
 人間は集団で生活せざるをえない存在であり、他者の意向と自分の意向が衝突することがある。そこで自分の意見を押し通せば、他者の意向を踏みにじることになる。集団生活をする限り、自己決定権には一定の制約が生じることになる。たとえば日本国憲法でも「公共の福祉に反しない限り」と制限が付されている。

 しかし、他人に対して危害を加えることにならない限りは、自由な選択が尊重されるべきだというのが、彼の基本的なスタンスだ。

3)自己決定の心理的起源
 自己決定の尊重、の法的、倫理的根拠は(簡単にだが)確認したが、心理的な起源はどう理解すればよいか。

 われわれは通常、「自分のことは自分で決めたい」という思いをもっている。しかし一方で、「自分のことを自分で決めるのは重荷だし、誰かに決めてもらいたい」というふうにも思う。とはいえ、誰かに決めてもらった後に結果が芳しくなかったりすると、「そんなつもりじゃないのに」と不満を感じることもある。

 フロムは「自由」にまつわる葛藤状況を次のように描いている。

 子どもが成長し、第一次的絆が次第にたちきられるにつれて、自由を欲し独立を求める気持が生まれてくる。・・・個性化の過程の他の面は、孤独が増大していくことである。・・・ここに個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。しかしこれらの衝動やそれから生まれる新しい絆は、成長の過程でたちきられた第一次的絆と同一のものではない。ちょうど肉体的に母親の胎内に二度と帰ることができないのと同じように、子どもは精神的にも個性化の過程を逆行することはできない。もしあえてそうしようとすれば、それはどうしても服従の性格をおびることになる。しかもそのような服従においては、権威とそれに服従する子どもとのあいだの根本的な矛盾は、けっして除かれない。子どもは意識的には安定と満足とを感ずるかもわからないが、無意識的には、自分の払っている代価が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。このようにして、服従の結果はかつてのものとはまさに正反対である。服従は子どもの不安を増大し、同時に敵意と反抗を初出す。そしてその敵意と反抗は、子どもが依存している・・・まさにその人に向けられる・・・(日高六郎訳、自由からの逃走
、pp.39-40)

 すなわち、幼児が主張する「自分が!」「自分の!」という言葉に表れている自律への願望が、個性化を促進する。十分に個性化した個体が集まってつくる社会は、多様で柔軟性に富んだ社会となることが期待できるから、「自律性の尊重」が社会的な正当性を与えられることになる。
 しかし自分で決める、というのは基本的にしんどいことだ。それは自分だけの道を選ぶことになるからだ。孤独な道であり、その道を行く者は孤独という重荷を背負わなくてはならない。その重荷は時に背負いきれないものとなる。
 そんなときは、誰か他の人に決めてもらいたくなる。しかし、他の人の意見は自分の選好とは異なる面があるはずだから、決めてもらった場合には、かならず不満や怒りを伴うことになる。場合によっては、決めてくれた人に八つ当たりするようなこともありえる。
 とはいえ、全ての選択を「自分」が行うことは無理だ。複雑化した社会の中で生活を営む場合、人と話し合って決めたり、他人に決めてもらったりということもありえる。そのような相互依存も必要だ。それを許容しない社会は、あまりにも息苦しい。

 だとすれば、とりあえず医療の現場に限っていえば、自己決定、自律の尊重だけに高いプライオリティを置いた治療は、患者に無理な情緒的負担を強いることになりかねず、合理的な判断を下すことへの障害ともなりかねない。臨床場面では、患者にかかる情緒的負荷を治療者が敏感に察知して、医師としての立場からの意見表明を積極的に行って、患者の情緒的負担を軽くする配慮をしていることが多いと思う。だからこそ、臨床倫理の4原則に、Respect for autonomyという患者の自己決定を重視した原則だけでなく、beneficience, nonmaleficenceという治療者側の判断に依拠した原則も含まれることになったのだろう。
 そういう現実を踏まえれば、「患者の自己決定」を尊重しようとするよりも「shared decision-making」を目指す、というほうが、実際の決定過程をリアルに表した表現ではないだろうか。患者の「決断」は、一見患者本人にのみ帰属しているように見えるが、実際は治療者患者の間主観的な関係の中で生まれてくるものであり、最後のサインは患者が行っても、決断をプロセスととらえれば、その決断は全体的な視点でみれば治療者患者間でshareされているはずだからだ。
 そう考えるならば、「自律の尊重」と呼ばれる倫理原則は、単に「患者の意見の尊重」という原則に差し替えられるほうがよいのではないか。