フロイトS.Freud著『精神分析療法の道』を読む(3)

 フロイト著『精神分析療法の道』(人文書院刊『フロイト著作集 第9巻 技法・症例篇』所収)について、さらに続ける。
 これまでのエントリーは、以下に。
『精神分析療法の道』を読む(1)
『精神分析療法の道』を読む(2)
 今回はこの論文でフロイトが示した、「禁欲原則」正当化のロジックを整理して考えみる。まずフロイトがあげた理由は、次の二つにまとめられる。

 まず治療的観点から。

1)断念された欲求が治療者との関係によって充足されると、治療を進展させるだけの意欲を患者が欠くことになるから。

 そして倫理的観点から。

2)「医師−患者関係」以外の関係に、医師と患者が入っていくのは良くないから。

 この二つの妥当性について検討したいが、今回は治療的視点から1)について検討する。

 ここでフロイトが想定しているのは、たとえば分析家との間で恋愛関係に陥り、性的欲求が満たされてしまっているような患者だ。そうした患者は分析家と会うことだけで満足してしまい、自己理解が進まず、治療も進まない。こういうパターンに陥ると、治療としてはだめである。だから、治療者が禁欲的であるべきだ、というのがフロイトの主張だ。
 でもリビドー論に基づいたこうした正当化は、論証としては弱い。というのは、ある欲求が充足しても、それ以外にまだ満たされていない欲求が存在するからだ。たとえば、あるフランス料理店に入って、「タラバガニと野菜の煮込み、スパイシー・トマト・ソース」が出てきたとする。カニの身をかむと、じゅっと甘辛いトマトの汁がカニの味と絡み合いながら舌に広がる。いやー、うまい!となる。さて、食欲は満たされた。では満腹になると何も考えないか、というと必ずしもそうではない。食後にコーヒーでもすすりながら、「ここのシェフはどんな修行をつんできたのか」とか、「どうやって、こんなうまい料理つくるんだろう」と考えたりすることもあるだろう。あるいは、食べ終わってから「ちょっと贅沢しすぎたかな」などと反省したりもするかもしれない。ある瞬間に、心の全ての部分が満足するということはありえないのであり、ある部分が満足したとしても、ほかの満足していない部分が作動しつづけるものだ。
 この過程をもう少し考え直してみる。
 まず、私がカニをたらふく食べて、「腹一杯だー、満足、満足」と満たされた心になった。そのとき、満ち足りた部分以外の心は背後に退いていて、いまは意識に上っていない。そのおかげで、安楽な状態でいることができる。
 しかし、外側の部分も次第に動き始め、いままで意識に上っていない心が浮かんでくる。たとえば「どんなシェフだろう?」と疑問が湧いてくる。すると満ち足りた心とその疑問との間にわずかな不調和が生じて、心は少し不安定になる。その不安定を解消しようと、ウェイターに声をかけシェフのことを訊く、というアクションをとる。ウェイターはにっこり笑って、シェフの経歴を教えてくれる。私は「ああ、そんな修行をしてきたから、こんなにおいしいんだ」と納得する。心は一旦安定を取り戻す。すると今度はウェイターが「少々お待ちください」といって厨房の奥に消え、今度は本物のシェフが登場した。私は、「うわ、本当にでてきちゃったよ、何しゃべろう」と少しビビる。ビビった心を取り戻そうと、「おいしかったです」とシェフに挨拶する。・・・
 と、いうように、心のある部分が満足しても、それ以外の部分が満たされることはない。この二つの間の不調和が次の思考やアクションを駆動し、交流を生み、ひいては人生を豊かにしていく。
 だから治療者として大切な介入は、「患者の欲求を満たそうとしない」という禁欲原則に基づいた介入よりも、患者の満たされていない心、あるいは不調和な部分に注意を向け続ける介入、だということになる。
 そうした場所に治療者が注意を向けていると次第に、患者が特に注意を向けまいとしている部分に、治療者が気づき始める。患者はそうした部分に対して長年注意を向けまいとしてきたために、患者の病理の核の一つになっていることが多いから、その部分に繰り返し注意を向け、理解をしていくことが、治療者が取り組むべき主要な課題となる。これが、いわゆる「抵抗分析」の過程である。
  もちろん「抵抗」の重要性は、フロイトもすでに「想起、反復、徹底操作」で論じている。ただその時点ではリビドー論的立場に立って、抵抗を克服すれば、想起がどんどん進んで反復が止まり、回復していく、と考えている。しかし、抑圧されていた部分を話すこと自体よりも、その後の課題である、抑圧されてきた部分とほかの心の部分の調和をとる努力を通じて成長していくこと、のほうがより治療的には意味がある。「抵抗分析」とはそのような持続的な意志の力によって進めていく治療的課題だということだ。
 このように考えていくと、リビドー論と「抵抗」の重視とは、互いに相容れない部分があることに気がつく。だから、この論文でのフロイトの議論はやや錯綜しているのだ。彼は、リビドー論をまだ捨てていないけれども、それだけではくみ上げきれない心の統合の課題をどう組み込むか、で迷いがあったのだと推測する。だから「精神綜合(統合)」という名前で呼んだらどうか、という批判に対して、分析家が「分析」しさえすれば、統合は患者が勝手に進めていくものだ、とかなり単純化した反論をせざるを得なくなったのだろう。そしてこの不調和が、「構造論」への理論的展開を推進していったのだとも考えられる。

 ということで治療論的立場から、リビドー論とそれに基づいた禁欲原則に関するフロイトの意見については、これでとりあえず反論できた、ものとする。

 しかし、だからといって「育てなおし治療」が正当化されるのか、という問題が残る。が、これはまた次回に。