フロイトS.Freud著『精神分析療法の道』を読む(2)

 さらにフロイト精神分析療法の道』を読んでいく。今日は、フェレンツィの能動(積極)技法についてフロイトが言及をはじめたところから。

 フロイトは、彼が許容する「分析家の能動性」として次の二つをあげる。

抑圧されているものの意識化と抵抗の発見の二つである。もちろん、われわれはそれでもう十分に能動的である。(p130上)

 しかし、それ以外の能動性が必要とされる場合はないのか、と自問する。そして、外界に働きかけることによって患者の心的活動を変化させるような、フェレンツィのいう能動性の発揮について「何ら異議はないし、またそれは全く正当であると思っている」(p130下)と、フェレンツィの主張に一見寛容な姿勢を示す。それでも新しい技法の検討がなされる際には、ある基本原則に従うようにせねばならない、と釘を刺す。

その基本原則とは−分析療法は、それが可能である限り節制−禁欲−のうちに行われなければならない、というのである。(p130下)

 いわゆる「禁欲原則」の提示である。ではなぜ禁欲原則が必要なのか。その理由に関して、フロイトは次のような説明を行う。まず症状とは挫折させられた欲求の代理満足である。しかし、それは病苦という苦痛を伴っている。だから患者は受診というアクションを起こす。ところが症状が転移神経症に転化した際に、治療関係の中で満足が与えられてしまうと、苦痛が少なくなってしまうため、治療の進展へのモチベーションを欠き、治療が停滞することになる。だから治療者が禁欲的にふるまうことによって、苦痛を与え治療へ意欲づけていかねばならない。と、まずはこのように治療的観点から「禁欲原則」が正当化される。(こうした主張の中で、フロイトは「分析治療ではこのような甘やかしは一切避けねばならない」(p132上)(SEでは"All such spoiling must be avoided)と主張している下りが印象的である)。
 このあとさらにフロイトは、「医師としての分別」を持ち出してくる。この際、患者を治療者の私有物にして、自分の気に入るように仕立て上げる治療を正当化する「スイス学派」(ユングら)の考えを峻拒する、と述べ、

・・・ここにこそ、医者としての分別を用いるべき場所があるのであり、これを超えては、われわれが医者としての関係以外の関係に入ってゆくことにならざるを得ない、と思う。(p132下)

と説明する。ここでフロイトは、患者に満足を与えてしまう治療態度は、治療的でないだけでなく、医師としての矩を越えてしまうがゆえに適切でないといっていることになる。禁欲原則を治療的観点からだけでなく、倫理的観点から正当化しようとしているわけだ。ただしフロイトは、倫理的な観点を深めることを避けて、「患者に対して、それほど深入りした働きかけを行なうことは、治療目的にとっても必要ない」と、すぐまた治療論的な話に戻す。そして、過去のフロイトの治療経験−フロイトと異なる民族、地位、価値観を持った人を治療する中でも、患者の個性を損なうことなく助力を与えられた経験−を根拠にして、「スイス学派」のような治療は必要がないのだと否定する。
 しかしフロイトは、教育的な関与が全く必要でない、とも断定せず、それが必要な場合があることも認める。それでも教育的な関与は、分析家を模倣した人をつくるだけに終わってしまうため、それを「目標とするのではなく、彼自身の本質の解放と完成へ向かって教育されねばならない」(p133上)のだと主張する。
 それでも能動的な関与が許容される場合がある、と述べる。一つは、広場恐怖の患者が外出しないことで問題に直面することを避けている場合、外出できるようになるまで症状を緩和する能動性は許容される、としている。その理由として、そうしないと、自由連想が進まない、ことを挙げている。もう一つは、重症の強迫の患者の場合で、待っているだけでは何も変化がおこらない場合だという。

 さて要約はここまでで一旦ストップして、治療者が患者の欲求を満足させる治療、は良い治療でないと主張するフロイトのロジックについて検討してみたい。(ここが重要なのは、日本でも好んで行われがちな「患者の育てなおし」という名の元に退行を受け入れる治療、に対するフロイトの批判でもあるからだ。)

 でも、あんまり長くなってきたので、続きはまた明日に。