S.A.ミッチェル著『精神分析と関係概念』

 米国ウィリアム・アランソン・ホワイト研究所で活躍した精神分析家、ミッチェルによって書かれたこの本は、治療者と患者の関係性を軸にして、精神分析的な治療関係を広角的に捉えなおした、米国精神分析において重要な位置を占める一冊である。

精神分析と関係概念
精神分析と関係概念Stephen A. Mitchell 鑪 幹八郎 横井 公一

ミネルヴァ書房 1998-06
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 彼の言う「関係基本図式relational model」から、以下の5つの主題について検討されている。

 第1部 境界
 第2部 性
 第3部 幼児主義
 第4部 自己愛
 第5部 連続性と変化

 各部は、理論的考察を種にした章と、臨床的な検討を行った章の組み合わせから成っている。論点は多岐に渡るが、ここでは精神分析の治療機序に関して彼の考えるところを見てみよう。彼は最終章で以下のように述べる。

 ・・・変化は、被分析者の主観的体験を探究したり、映し出したり「抱えたり」することによってもたらされるのではなく、あるいはまた、(「現実」や「成熟」として提出される)分析者が適切であると考える感覚にしたがって、被分析者の希望や願望を再編成するように被分析者をなだめすかしたりすることによってもたらされるのでもない。むしろ、分析による変化は、統合の病理的なパターンを特徴づけていて、そのなかでは体験の差異が対人関係のつながりを豊かにするよりもむしろそれをおびやかすような、まさにそのような種類の不均衡を乗り越えようとする関与者たちの両者による奮闘から起こってくるのである。(pp369-370)

 治療者と患者が、それまでの有している視点を、情動と思考の相互交流を通じてより広角化していくような、相互発見的な過程自体が互いにとって治療的だとみているわけだ。これが彼のいう「関係−葛藤基本図式」に基づく治療機序の核心である。しかし、だからといって対比的に論じられている、「欲動基本図式」−たとえば自我心理学−や「発達阻止基本図式」−たとえばウィニコットの理論−を根本的に否定しているわけではなく、本文中では肯定的に論じているところも多い。この立場の曖昧さについて、訳者の横井氏は以下のように説明している。

 ミッチェルは、精神分析理論を1者的なものであるか、相互作用的なものであるかで二分しているのではない。こころは1者的でもありまた同時に相互作用的でもあるのだから、どのような精神分析理論も1者的であり、かつ相互作用的である。問題は、その精神分析理論が、こころをどちらの視点を出発点として見ているのか、どちらの立場から理解しようとしているのかということである。そしてどちらの立場も、こころを理解するための十分な理論的内容を備えている。(p16)

 たとえばミッチェルは人間は本来的に関係性を求める存在という前提の上に理論の統合を試みているわけだが、さらに深層にあると考えられる、関係性を求めることもない孤立した自己の部分について、この本で彼は説明しきれていない。ミッチェルが取りこぼしているこの問題点を、横井氏は訳注の中で以下のように説明している。

 ここに保留されている疑問のひとつは、関係性の手の届かないところにある自己の問題である。・・・たとえば、ウィニコットは、本当の自己を、基本的に単独であり、関係をもたないものincommunicadoとして描いている。また、ボラス(Bollas,C.)は、その人のあり方を形作るようなその人独自の様式を認め、それを「語法idiom」と呼んでいる。ウィニコットもボラスも、それらを生得的なものとして考えているが、しかし、ミッチェルは、それらを生得的なものとして位置づけることに対しては懐疑的なようである。(P78)

 このようにこの本で示される彼の理論は、詰めがやや甘い部分もある。これは、異なった理論を統合しようとする彼の方法論自体が有する弱さによる。この点に対して、徹底した思考を欠いた「折衷主義」と批判する人もいるだろう。しかし彼は緒言の中で、自らがとる方法論を積極的な意味をこめて「選択的統合」(p.ii)と呼んで、「折衷主義」と区別している。多くの矛盾する要素が一人の人間の中に含まれるものである以上、理論的徹底さよりも実際の人間の姿に忠実であろうとするがゆえに、矛盾を解決しないまま残すことをあえて厭うていないのだ。

 ミッチェルの仕事は、相互に連絡を欠いたまま発展した、欲動理論から対人関係論、対象関係論などの精神分析の諸理論を、可能な限り連絡をつけ統一的な視点から把握しようとした、きわめて総合的な仕事である。いわば壮年期の仕事だ。それゆえ若々しい、卓見に満ちた独創的な仕事の場合と違って、世間の注目をなかなか集めにくいのだろう。しかし、読まずにおくのはもったいない、重要な一冊だと思う。
 横井公一氏の訳はきわめて原文に忠実で正確である。また訳注も行き届いており、訳出までにかなりの労力と時間をかけられたのだろう。上質の翻訳である。