「老いと死」レクチャー終了

 「老いと死」レクチャー終了。今回はうまくいった。聴衆との情緒的な交流に心を開きながら、レクチャーの内容をその情緒の上に乗せていけたので、こちらものって話ができたし、終わってからも活発な意見のやりとりができた。やはり患者際で日々もまれている人たちの問題意識は鋭い。私自身も活性化された。

 今回も内容をまとめておく。
 「ターミナル・ケア」とはどういうことかを理解するために、まず「ケア」に関する説明からはじめた。ケアとキュアの違いについて英語の原義に遡って説明し、ケアというのは日常語であって相手のことに「気をかける」という意味があり、だからケアとは本来的に感情的な関係性に立脚して行われるものであること、そして医学モデルのキュアとは違う原理であることを説明した。現代の病院医療ではこのケアとキュアの二つの援助原理が作動しているが、このうち主にケアを担っている「看護」について、ナイチンゲールからはじまった近代看護ではなく、もっと昔からあったケアこそが看護の本来的な要素であることを伝えた。
 次に「ターミナル」の心理について説明した。まず最初にボウルビィの対象喪失論の説明と彼の事例を紹介し、さらにフロイトの『悲哀とメランコリー』に関して病的抑うつ、死者との同一化といった主題を取り上げ、事例を通じて可能な限りわかりやすく説明した。さらに「悲哀の仕事」についても説明し、それを進めるためには、怒りや悲しみが他者に受けとめられることが大切だと伝えた。その上で、終末期は連続した喪失の生じる時期であるから、そうした感情の受け皿になることがケアのエッセンスであると伝えた。この場合最終段階で言葉を使ったコミュニケーションが困難になっても、清拭などの看護行為を行う中で相手の気持ちを受けとめながら身体を動かしていけば、清拭する指先の動きに現れる患者への配慮が伝わるものだと話した。しかし終末期の不安や恐怖を看護師が受けとめ続けることはとても難しく、情動の存在を否認したり、また超越的な世界への救いを求めたくなる場合もあることを話し、その一例としてキューブラー・ロスが晩年「死後の世界」について語るようになったことを挙げ、しかしそうしたことを患者に伝えて救済をはかることは医療者としては越えてはいけない一線を越えていることを、その理由を含めて話しをした。
 最後に、一般の終末期ケアの中には実は「スピリチュアル・ケア」の要素が含まれていると述べ、その理由を説明するために、スピリチュアルとはなにか、そして終末期ケアのどういう部分がそうなのか、ということを実例を挙げつつ話した。

 終了後はまだ一回を残しているにもかかわらず、「お礼の気持ち」ということで一人の看護師さんから花束をいただいた。感激。聴衆の看護師さんの中でどうやら情動的な変化が生じているらしいとわかって、本当にうれしかった。とにかく、患者際でやっている人の心に響いていることが、何よりの励みだ。

 診療に追われる毎日の中で準備を続けるのは大変だけれど、この調子なら、最後までなんとかやれそうだ。最後は「現代社会の病理」と題したレクチャーと事例検討の予定。もうひとがんばり。

 夜はGlen O. Gabbard、Eva P. Lester著『Boundaries and Boundary Violations in Psychoanalysis』を引き続き。いつもながら議論が整理されていてとても読みやすい。