武田百合子著、『富士日記』(上)を読む。

 『富士日記』。武田百合子が、富士裾野にある山荘で、夫、泰淳と娘と過ごした日々を書き綴った日記。上巻は、昭和39年から41年まで。
 なにか特別な事件が起こるわけではない。淡々とした日常が流れていくだけである。その日常のひとつひとつの出来事を、自分の感覚に正直になって、無駄のない細やかな筆致で書き綴っていくところが、この本の魅力である。

 マウント富士のプールに行く。・・・主人は「溜り水で泳ぐのはいやだ。プールはあおっぱななんか隅の方に浮いていていやだ」というが、プールの脱衣所は、私だって、いつも気持わるい。びしょびしょしていて、なま温かく、おしっこ臭い。この脱衣所のロッカーの中にも、ネックレスと髪どめが忘れてあって、それも気持わるい。壁の、丁度私の顔あたりの高さのところに、大きな鼻くそがなすりつけてあって、それも気持わるい。(p376)

 この飾らない、しかしきびきびとした文章を読むと、思わず笑みが浮かぶ。そして磊落な百合子の人柄が、また読み手をひきつけていく。

・・・本栖から白糸の滝あたりまでの麓の村は、パノラマのようによく見えた。真白なアルプスも見えた。コロナが一台とまっていて、男の子が二人、石を下の道に投げている。両親らしき大人は車の中にいる。危ないので注意する。男の子二人は、少し間を置いて、帰りがけの私に「クソババア」という。「クソは誰でもすらあ」と、振向いて私言う。主人に叱られる。(p288)

 こんな放言にも傲慢さを感じさせないのは、この人の持つ生来の徳によるものだろう。しかし良く見れば、豪放さやおかしみの背後に、常に生のはかなさを感受している百合子がいることが見えてくる。

 夜テレビでは、今日の日曜日は、最高の暑さ、最高の人出、最高の事故死、と報じている。山中湖では家族の写真を写そうとして、ピントを合わすため後ずさりをしていた人が車にお尻をはねられて死んだ。(p403)

 いつも百合子は、死の影に対して敏感だ。たとえば高見順の訃報を受け取った日の描写。

 朝ごはんを終えてすぐ、河口湖駅より列車便の原稿を出しに下る。主人同乗。駅から思いたって、そのまま本栖湖へ行く。ボートに乗る。岸づたいにはこられない、人のいない溶岩の入江に舟を着け、水着をもってこないので、主人真裸になって湖水に入り泳ぐ。水は澄んでいて深く、底の方は濃いすみれ色をしている。ブルーブラックのインキを落したようだ。そのせいか、主人の体は青白く、手足がひらひらして力なく見える。私は急に不安になる。私も真裸になって湖に入って泳ぐ。
 帰り、農協でビール二十六本買う。
 おそい夕飯のあとかたづけをしていると、豆粒のような灯りの懐中電灯をちらちらさせながら、笑い声の男と女、勝手口へ下りてくる。電報配達の男に、女が一緒に遊びがてらついてきたらしい。
 タカミサンシス ソウギミテイ モリタ(p156)

 百合子が日常を眺めるこまやかな視線の、その向こうには死がいつも離れない。それゆえ日常の情景に、はかなさの影がまとわりついてしまう。食卓に乗せられた毎日の食事、たとえばチキンカツ、むしがれい、アスパラガス、サンマの干物。そんなものですら、かなしい青い光を帯びていく。さらに知人や、娘、それに泰淳との何気ないやりとりもまた、はかない光を放つことになる。たとえば、百合子が車を運転していて、タイヤのホイールカバーが外れてしまったとき、泰淳が「もしや落ちていないか」とトンネルの中へさがしにいく次の場面。

ふと気がつくと主人がいない。ひとことも言わずに、トンネルの中へ、すたすたと戻っていくのだ。・・・真暗いトンネルの中に、吸い込まれるように、夢遊病者のように、大トラックに挟まれて入って行ってしまう。何であんなに無防備なふわふわした歩き方で、平気で入って行ってしまうのだろう。死んでしまう。昨夜遅くまで客があり、私が疲れていて今朝眠がったからだ。ぐったりしている私の、頭を撫でたり体をさすったりして、しきりになだめすかして起してくれたのに、私が不機嫌を直さなかったからだ。・・・(p333)

 百合子と泰淳は、富士の裾野の豊かな自然の中で、満ち足りた生活を送っているように見える。しかし、その幸せな生活の基礎がいかに脆いものかを、彼らは肌を通してひりひりと感じている。この、はっきりはつかみとれないけれど確かに彼女を包み込んでいる不安が、泰淳とのたわいない会話に、ありきたりの食事に、何気ない日常に、はかない影を刻み込み、かなしい光をあてていく。
 『富士日記』の魅力は、この陰影から生まれている。

富士日記〈上〉 (中公文庫)
富士日記〈上〉 (中公文庫)武田 百合子

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