谷崎潤一郎著『夢の浮橋』を読む

 谷崎潤一郎著『夢の浮橋』。1959年刊。
 主人公、糺(ただす)の母親への近親姦願望を扱った、谷崎晩年の一作。
 ともかく、大変けったいな小説である。
 この小説の主人公、糺くんは、自分が抱えている問題について悩むこともなければ、主体的に解消しようともしない。かといって、ふまじめ、というわけでもない。ただひたすらに受動的に生きる人なのである。それゆえ読者は、糺くんの言動に納得がいかず、「なんで悩まないんや?」と疑問にかられる。そして、いつかはその疑問が解消されるのではと信じて頁を繰るが、結局それが解消されないまま終わってしまう。という谷崎らしいと言えば谷崎らしい、大変けったいな小説である。
 その、けったいな要素を確認するために、あらすじを追う。
 この小説の舞台は、京都の下鴨、糺の森の近くにある邸宅で、そこで生じる糺くんと父母との関係の奇妙な展開が、この小説の骨格である。
 まず開巻まもなく、糺くんが幼い日に寄せた母親への愛着、というより乳房への偏愛が描写される。

 私は口で母の乳首の在り処を探り、それを含んで舌の間を弄ぶ。母は黙っていつ迄でもしゃぶらせている。その頃は離乳期と云うことを喧しく云わなかったからか、私は可なり大きくなるまで乳を吸っていたように思う。一生懸命舌の先でいじくりながら舐っていると、うまい工合に乳が出てくる。(pp21-22)

こうして乳を吸う糺に、母親はやさしい声で子守歌を聴かせる。そうして母が彼に差し出す暖かさと口愛的な快感とに浸りながら、糺くんは育っていく。
 その後、この母親は胎児をおなかに宿すことになる。しかし出産には至らず、母親は子癇であっけなく死んでしまう。愛着対象を失った糺くんは、その後ひたすら母親を恋しく思い出そうとする。母親の髪の匂い、乳の匂い、含み込んだ乳首のかたさ・・・。そうした母親に関する感覚的記憶をたよりに、母親が与えてくれた恍惚を再び追い求めようとする。
 ところが突然、その喪失の悲しみをいやしてくれる女性が現れる。父親が芸妓を娶い、子どもに継母としてあてがうのである。その際、父親は次のように糺くんに言って聞かせる。

お前は二度目のお母さんが来たと思たらいかん。お前を生んだお母さんが今も生きてヽ、暫くどこぞへ行てたんが帰って来やはったと思たらえヽ。わしがこんなこと云わいでも、今に自然にそう思うようになる。前のお母さんと今度のお母さんが一つにつながって、区別がつかんようになる。(p33)

 この父親の言葉に逆らうことなく、糺くんは継母を実の母と思いなしていく。そして程なく、継母に対しても乳を吸う習慣が始まる。継母も、本当の糺くんの母親であるかのように、暖かい声で子守歌を聴かせる。それは糺くんが十三、四才になっても続いていく。
 こうした家族内布置を支配している心理は、強烈な「否認」である。思春期の息子が、継母の乳を夜毎まさぐって吸う中で体験されるはずの罪悪感を、この主人公、糺くんが体験することはない。そして継母もまた、息子にお乳を吸わせることに逡巡をしている様子はない。さらに父親も、この隠微な関係に気付いているにもかからわず、何ら介入しようともしない。
 読者はここに至って、病的否認が支配する彼らの関係の危険性と異常さを意識することになる。が、不思議なことに当人たちは、その危うさをまったく意識することはなく、この異常な関係を続けていくのである。
 まさに、けったいな人々、である。
 そんな中、継母が妊娠する。ところが、この子どもは産み落とされてすぐに、京都北山の集落の一つである静市へともらわれていくことになる。その理由は、本文中には明らかにされていない。
 それでも読み手には、その理由が推測できる。このおなかの中の胎児は、遺伝的には父親と継母の子ではある。しかし、継母と糺くんとの近親姦的な関係の中から生まれてきた子としての影を背負っており、それゆえに棄てられるということが、仄見えるのである。
 一方、糺くんには、この子が他所へやられたあとで、この事実を知らされることになる。ここで糺くんは初めて、それまで頼り切っていた「否認」という防衛を捨て去ろうとする。「なぜ、その子はもらわれていかねばならないのか」と、自らに問いかけはじめるのだ。これが、糺くんの自我が動き始めた瞬間だ。そして糺くんは、その理由を探るべく静市へと向かう。がんばれ、糺くん!
 ところが程なく、この能動的な決意があっさりと消えていってしまう。彼は、早々に調査をあきらめて、下鴨へ帰ってきてしまうのだ。糺に主体性の発揮を期待する読者は、またもや裏切られてしまう。おい、糺、えーかげんにせーよ、とでもいいたくなる。
 その後、さらにとんでもない事態が生じる。数日たって、今度は継母が搾乳をしているところに出くわす。胸をはだけて乳を搾る継母の姿を見て、糺くんは狼狽する。継母が女であることを知り、いつも吸っている乳房が性的意味合いをもつことを知ったからだ。狼狽して後ずさりする糺くん。しかし糺くんの姿に気がついた継母は、彼にとどまるように命じて次の言葉を吐く。

あんた十三か四イの頃まで、この乳舐っておいたの覚えといるやろな。(p53)

 それまで否認されていた、性的な関係性がここで一気に現出する。糺くんは自分がはっきりとは意識せずにおこなっていた近親姦の危険にはじめて遭遇し、おびえる。
 しかしここでもまた、糺くんは自らのうちに湧き起こる罪悪感を主体的に乗り越えようとはしない。ただ、継母の誘惑に溺れていくばかりである。まずコップに注がれた乳を飲み干し、さらに誘われるままに、継母の乳房に顔を埋め、乳を貪り吸う。そして、糺くんは声を上げる。

「お母ちゃん」
と、甘ったれた声を出した。(p56)

 「糺〜、お前はあほか〜」と思わず口走ってしまうような、けったいな展開である。
 この行為の後、自らがなしている危険な行為に気がついて、罪の意識が彼を襲うこともあるのだが、それはつかの間のことに過ぎない。その後も糺くんは、繰り返し継母の誘惑に惹かれ、そして溺れていく。
 しかし、この関係を見ていた親族たちがこの危険な現実を察知しはじめ、次第にうわさが飛び交うようになる。静市へとやられた継母の子どもは、実は継母と糺くんの間の子どもではないか。こうした憶測が広まる中で、道に外れた行為をおこなったということで、糺くんや継母、父親は親戚から疎んじられていく。
 この後も、小説はさまざまな展開を見せる。詳しくは本篇を参照いただきたいが、その中で、父親が死に、継母も死に、最終的に糺くんが残されることになる。そしてこの小説は、一人になった糺くんが、静市にもらわれていった子どもを無理やりひきとり、その子の面倒を見ることを決意して終わる。
 うーむ。このように筋を追ってみると、ほんとうに変な小説である。
 とくに、糺くんという人間は全く魅力に欠ける。こうした受動的な人を主人公に置いて、なおも小説として成立しているのが不思議なくらいだが、ここで彼の受動性が含んでいる問題を明確にするために、アイスキュロスオイディプス劇(藤沢令夫訳、オイディプス王岩波書店)と対比してみたい。
 オイディプスは、先代王を殺した下手人を探そうとする。その中で、実はその犯人は自分であること、そして妻イオカステが実は自分の母であることに気がつき始める。その事実をうすうす理解し始めて恐怖を覚えるオイディプスに、イオカステは「つまらぬ話は忘れておしまいになってくださいませ」と懇願する。彼女は真実を知ることの危険を察知して、「つらい現実は否認しましょう」と懸命に誘っているのである。しかしオイディプスは、彼女の希望を敢然として拒む。

いやいや、それはならぬ。かかる手掛りをにぎりながら、わしの出生の秘密を、明らかにさせずにおいてなるものか。(p98)

 オイディプスは身の破滅を招くような恐るべき真実でも、なお知ろうとする。それは、なぜだろうか。この理由について、アイスキュロスは、次のようにオイディプスに語らせている。

恵みぶかきテュケの子をもってみずから任じるこのわし・・・かかる生まれを誇るわしが、どうして・・・この世におけるわが素姓を、つきとめるのをおそれようか。(p100)

 彼にとって知らないことは怯懦であり、知ることは勇気なのだ。英雄たるオイディプスは、たとえ危険な現実でも知らなくてはならない。それが勇気の証しとなるからだ。つまりオイディプスは、英雄として生きることを選んだ。
 しかしそれが徒になり、最終的には真実の重みに耐えかねてイオカステは首をくくり、オイディプスは自らの目をついて盲目になる。
 このようにオイディプスは、たとえ心的苦痛をもたらす真実でも、それを主体的に引き受けようとした。この英雄的行為は、結果的に悲劇的結末をもたらすことになった。
 一方、谷崎の小説における糺くんは、ほとんど懊悩することもなく、葛藤を外在化して処理するばかりである。主体的にとりくんだことといえば、子どもが他所へやられた理由を知ろうと静市へ赴くことと、最後に、その子どもを引き取って育てようとすることだけである。
 しかも情けないことに、その子を糺くん自身が育てるのでなく、乳母に育てさせようとするのである。おもわず、とほほ、とつぶやいてしまう。情けないぞ、糺くん。
 このように、運命を受動的に甘受するばかりである谷崎の主人公と、オイディプスの違いはあまりにも対照的である。いわばオイディプス劇が英雄の悲劇だとすれば、谷崎のこの作品は凡人の喜劇とでもいうことができるだろう。
 この糺くんと、とりまく人々の行動パターンは、日本の臨床で比較的良く出会うパターンであるように感じる。
 つまり、ある人の中に何か問題が生じ始めると、本人が乗り越えようとするのを待てずに、周りの人たちが解消しようとするパターンである。ちょうど、実母の死に直面して悲しむ糺に、継母をあてがって解決しようとする父親の行為がその典型である。
 しかし、それは結局その人(糺くん)の中の矛盾を拡大することになっていく。この矛盾が、集団の中で抱えられている場合はおおむね問題はない。しかしもっと大きな矛盾となって周りが背負いきれなくなると、結局その人を外へと放り出すことになる。
 一方、オイディプスは、西洋の代表的な治療である精神分析の精神そのものを体現化している。たとえ悲劇的な現実であっても、それを理解し、自分のものとして引き受けようとするからである。しかし直面した現実のあまりの重さに、オイディプスは、自らの目を刺し、血の涙を流しながら王位から追放してくれと懇願することになるのであるが。
 この二つの対照的な物語は、臨床家に大きな示唆を与えてくれる。
 たとえば僕は、精神分析の志向する価値を大切なものとして考えている。だから治療者として患者に「知ること」へと誘いたくなる。精神分析的に治療しようとすることは、この英雄的行為へ誘うことにほかならない。
 しかし、それはきわめて危険な行為である。患者の病気の悪化につながったり、ときにオイディプスのように自らを傷つける行為へと患者を駆り立てかねない、そうした危険をはらんだ行為である。その意味で、治療者が、精神分析的な治療へと無反省に誘うことは、反倫理的だといえよう。
 それに治療者も常に英雄であるわけではない。われわれもまた、弱い糺くんとしても生きている。たとえば患者との治療関係がうまくいかなくなって、患者が不満を感じ始めたときに、それを察知した看護師が密かにフォローしてくれていたり、あるいは僕が患者の悪化の徴候を見逃していたとき、作業所の職員がそれに気がついて、適切なアドバイスをしてくれていたり、そんなことが常に生じている。
 僕が知らないところで、その患者に関わるさまざまな人が支えてくれているのである。
 ところが診察室のことだけしか目に入っていないと、そうした全体的布置に気がつかず、「僕の治療でよくなった」とか、「僕の解釈でよくなった」などと自惚れることになったりしがちである。
 これでは、「お母ちゃん」のおっぱいを吸って甘えている糺くんと、同じようなものだ。
 だから、まず大切なことは、僕の中にもある糺くん的な要素を把握するように努力すること。その上で、はるかにオイディプスを見やりながら、その方向へと歩み続けることが必要なのだろう。
 まったく魅力のない糺くんを主人公に抱いたこの小説。そういう意味では、とても傑作とは言えないはずなのだが、こんなに長いエントリーを書かざるをえなくなるまで考えさせられた、という点では、傑作ということになるのだろうか。
 谷崎の術中に嵌められたようで、どうも複雑な気分である。

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