フィリップ・アリエス『死を前にした人間』

 年の瀬というのに暗い話で恐縮だが、フィリップ・アリエス『死を前にした人間』を読んだ。原書は1977年刊。邦訳は1990年、みすず書房から。
 約550ページ、二段組みの巨大な書物ながら、その豊かな内容のの豊富さと論旨の明晰さゆえに、スムースに読み通すことができる。人間の死に対する態度や思考が、時代によっていかに変化してきたかを、多くの史料を基にして説得力をもってときあかした重要な一冊。
 アリエスによれば、もともと人間は死に対して親密であったという。老い衰えると、人は自分の死期を知り、「運命と自然の摂理に素直に、自発的に服従」(p23)してきた。そのような死を彼は「飼いならされた死」と呼び、この死における平静な態度は、キリスト教信仰とは無関係だった、という。

 1490年のイタリア語の一文を読めば、間近い死をはっきりと認めることが、いかに自然発生的で、正常なものであったかが、またその根源において、不思議なものとも、さらにはキリスト教信仰ともいかに無関係であったかが判る。(p4)

 なぜそのような平静な態度をとれたかというと、当時の人たちは「人生からそんなに多くは期待していなかった」(p523)から、だという。彼らは、「死は生が与えてくれたものを奪いゆく。セラヴィ!」という価値の中にいた。
 しかし、このような18世紀以前の死への態度が、19世紀に入ると大きく変化する。つまり「飼いならされた死」から「野生化した死」へと変化した。
 まず19世紀には、彼が「汝の死」と呼ぶような死生観が一般的になる。というのは、アリエスが「感情革命」(p420)と呼ぶ変化が起こったからだ。それまでの伝統的社会では、共同体や社会に対する感情的紐帯が人間を支えていた。しかしそうした結びつきは、次第に共同体を離れ、本当にかけがえのない近しい人に集中していく。この結果、「かけがえのない、たった一人の存在」で「汝」の意味が優越性を帯びるようになった。このようなロマン主義的な傾向は、決して美術界における変化というだけでなく、日常生活における価値意識の変化を反映していた。そうアリエスは論じる。
 さらに19世紀後半以降、死に直面することへの苦痛から、虚言が支配し始めることになる。(瀕死の人に対して「異常なし」「まだあらゆる可能性が残されています」というお芝居を演ずるようになるp503)。また20世紀中頃になると、「喪の悲しみを人前で表明したり、また私的にとはいえあまりにもしつこく、いつまでも悲しみを表現することは病的だと、人は強く信ずる」(p520)ようになり、さらに死が医療化されるに従って、死にゆく患者が死から隔離される、という転倒した事態が生じるようになった。その非人間的な事態を何とかしようとして、「告知」ということがあらためて重要視されるようになってきたのが、最近の展開である。
 以上、アリエスの歴史理解のごく一部を要約した。このような彼の歴史理解が妥当であるならば、今日「スピリチュアルケア」を意識して行わなくてはならなくなった理由として、よくあげられる「死の医療化」はさほど大きな位置を占めないことになる。それよりも、死に立ち向かう責任主体が、共同体→家族→個人へと小さなものになってしまったことがより重要な理由だということになる。

死を前にした人間
死を前にした人間成瀬 駒男 フィリップ・アリエス

みすず書房 1990-11
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