チャールズ・テイラー著『<ほんもの>という倫理』

 自分自身に忠実であろうとする、つまり「ほんものauthenticity」であろうとすることの倫理的意義を問い直した一冊。翻訳は2004年、産業図書から。原書は1991年刊。著者チャールズ・テイラーは、「これからの正義の話をしよう」で一躍有名になったマイケル・サンデルの師で、現代社会における非常に重要な哲学者。
 心理療法では、「自己実現」が重視されることが多い。しかしそれは時に、現実に立脚しない夢想的な努力として批判されることがある。この本でテイラーは、批判の妥当な部分から学びながら、それでもなお自己実現の意義を確かめようと努力をしている。大いに勉強になったので、簡単にまとめておく。

 個人主義の出現により「近代的な自由」が発展したが、一方で人間が包まれていた「大きな社会、大きな宇宙という行為の地平」が失われてしまった。それにより、自分のことにしか関心をもたない「アトミズム」が人の心を支配するようになった。また古い秩序がなくなり、道具的理性が優位性を持つようになったために、別の基準ではかられるべき事柄でさえ、効率や費用便益分析によって判断されるようになった。このような現状にテイラーは懸念を表明する。
 そんな社会の中では、「自分自身に忠実である」というほんものの倫理が重要だと言う。そのように生きることが道徳的理想であり、気高い生き方だと言うのだ。

 わたしたちがしなければならないのは、この<ほんものという>理想を回復する作業であり、またそうすることによってこそ、わたしたちはこの理想の助けを借りて、自分たちの実践を立て直すことができるようになるのです。(p32)

 そしてそのためには、自分を「ことばと行動のうちに表現する」ことが必要だと主張する。

 自分らしいあり方を発見するには、自分らしくあるとはどういうことかを新たに表現し直す以外にありません。・・・自分がいったいどんな人間になれるかを発見するのは、・・・自分のなかにある自分だけのものをことばと行動のうちに表現することによってなのです。(p84)

 テイラーは、このような「ほんものという倫理」の源泉を18世紀末にたどる。それまでは、「神であるとか、あるいは善のイデアといった何らかの源泉と触れあっていること(p37)」が重要だった。しかし、この時期に「わたしたちが結びつかねばならない源泉はわたしたち自身の奥底に」あると認識されるようになった、と整理し、ここで生じた転換を「主観主義的転回」と呼ぶ。
 そのような自分自身を発見していくことの重要性を述べた人として、ルソー、カント、ニーチェらを跡づけていく。しかしデリダフーコーら、ポストモダンの思想家に対しては単に「理想から逸脱した形こそがよし」(p91)とされ、ほんものという倫理は無視されるようになってしまった。そのことを、テイラーは強く批判する。
 このような問題を回避するためには、「ほんものを追い求める倫理」と「自己決定的自由」とを区別せねばならない、と彼は考え、「自己決定的自由」には一定の制限をかける必要があると主張する。というのは、「人間の生が元来、対話的な性質のもの」(p45)であり、ほんものは他者との関係の中で芽生えるものだからだ。
 しかし自分とは異なる存在である他者とのあいだでは、葛藤が生じる。それをどうやって乗り越えるべきなのか。そのために異なっている他者を承認しよう、というだけではうまくいかない。差異を超えた「はるかに価値ある何らかの共通の属性が、あるいは互いに補い合うような属性」(p72)を相互に共有していなくてはならない、と彼は述べる。
 そして、この共通の属性を深めていく中で、最終的にはある種の宗教的体験にまで到達することが必要なのかもしれない、と主張する。

 ほんものであるとは自分自身に忠実であることであり、自分の「存在感」を取り戻すことだとすれば、わたしたちがほんものという理想を完全な形で成就できるのは、その存在感という感情がわたしたちをもっと広大な全体に結びつけるということを理解するときだけかもしれません。(p125)

 もう少し、テイラーの主張を理解する必要がある。しばらく読むことにしよう。

「ほんもの」という倫理―近代とその不安
「ほんもの」という倫理―近代とその不安チャールズ テイラー 田中 智彦

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