マイクル・バリント『スリルと退行』を読む

 本日も診療と書類記入の一日。しかし精神科は書類が多すぎるな。

 その後、マイクル・バリント著、中井久夫・滝野功・森茂起訳『スリルと退行』。原題はThrills and Regressions。1959年刊。名高いThe Basic Fault(邦題『治療論からみた退行』)が1968年刊だから、その約10年前の本だということになる。
 思春期の無軌道な行動についての説明概念として援用するとよさそうに思って、10数年ぶりに再読。読みながらざっと要約を作ってみた。

 バリントはこの本で、オクノフィルとフィロバットという二つの類型を提示している。フィロバットとは、ジェットコースターマニアのように、スリルを積極的に求めていく人。オクノフィルとは、そうしたものがすごく怖くて、とにかく堅固不動なものにしがみつこうとする人。
 この二種の人たちの幻想は、「オクノフィルが安全な対象と接触さえしていれば自分は安全だという錯覚の中に生きているとすれば、フィロバットの幻想は、自分がそなえている装備さえあれば他に対象は必要としない、ましてや特定の一対象などは要らないという幻想」(P39)だとバリントは想定する。
 そして、それぞれの発達的な起源をバリントは以下のように考える。まず、オクノフィルは、いわゆる全体対象関係が成立する前の段階にあり、母親を十分に吟味せずとも、それをとりあえず良い対象だとみなして、しがみつくことによって不安をコントロールしようとしている段階だと考えている。一方、フィロバットも「母親の子宮の羊水に包まれていた時」へと「幻想の中へ退行して世界をこのようにみなすようにな」っているような原始的な段階だと見ている。
 そしてこの二つに共通しているのは、「二つとも二次的な状態であって、「一次愛」という原始的な段階から「対象の独立存在性の発見」という外傷的な発見に対する反動として生じたもの」だと想定している。なおどちらも「一次愛」から派生したものであるから、どちらにも「phil-」をつけた、とのことである。

 こうした主張を、発達過程に添って整理しなおしてみる。まず赤ん坊は、一次愛の状態にある。しかし、母親が自分とは独立した存在であると、気がつくようになると、それは外傷的体験となる。その恐怖を克服するために、赤ん坊が一般に用いる戦略は二つにわけることができる。一つがフィロバット的な態度、もう一つがオクノフィル的な態度。あらゆる人の中に、この二つの類型が混淆して存在するようになる。というのがバリントの主張だ。

 さらにバリントは、この分類に依拠して、精神分析の治療論に話を展開していく。 
 まず今までの精神分析理論には、「患者にオクノフィリックな態度を作り出し、あるいは、すでにあればそれを強化する」(p128)傾向が一般的にみられた。すなわち、分析家への依存を重視し、何か患者が行動しようとすれば、それは「行動化」とされ、解釈が与えられることになり、発展的な試みが行えないようにしてしまう傾向があるというわけだ。それは問題があり、逆にフィロバティックな要素も必要だと考えている。彼の考えるフィロバティックな援助とは、「自分も「友好的広がり」の一部と化して、何ひとつ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ち続ける」(p129)ということだ。こういう姿勢が精神分析には欠けているという。
 そしてこの本でははっきりと言明していないが、精神分析の基本的な治療機序は、まず一次愛への退行が重要であり、そうした退行が進展する過程では、オクノフィリックな態度とフィロバティックな態度のいずれにも偏らない働きかけをとることが大切だという由のことをおおまかには述べている。しかしこのあたりの論述は、どうも及び腰で、はっきりと主張し切れていない。
 このあたりの治療論をよりはっきりと、そして洗練させて打ち出したのがThe Basic Faultにおける新規蒔き直しNew Beginningを核とした治療論だということになる。

 いわばThe Basic Faultへの一里塚ともいうべき著作だが、中井も指摘するように「心理的類型あるいは世界に対する態度としてのオクノフィリア対フィロバティズムという二分法」が、「それ自身の魅力を持っている」(p185)という点に、この本の意義がある。その二つのあり方について、様々な角度から論述していくバリントの語り口を楽しむべき本ということになろう。

 しかし、「思春期」のレクチャーにはあんまり使えないな。

 夜は、『エミリー・ディキンソン詩集』の数編の詩を音読。その後、『海辺のカフカ』を引き続き。