小此木啓吾編『青年の精神病理2』を読む

 そろそろインプットをやめてレクチャーの中身を考えねばと思っているのだが、勢いでもう少し。

 小此木啓吾編『青年の精神病理2』を読んだ。弘文堂刊『青年の精神病理』全三巻のうちの第2巻。1980年刊。1978年に行われたワークショップの内容をもとに構成された本。精神分析的視点からの青年期理解が主題の一冊。小此木啓吾皆川邦直、伊藤洸、牛島定信、福井敏、中村留貴子(本書では瑠木子)、渡辺久子、橋本雅雄、乾吉佑、岩崎徹也といった執筆陣による論文に加え、小此木先生と河合隼雄、笠原嘉両先生の対談つき、という今思えば豪華な内容だ。
 巻頭の小此木啓吾先生の総説『青春期・青年期の精神分析的発達論と精神病理』は大変勉強になる。やはり精神分析の学問としての発展を総覧する小此木先生の力量は、桁外れのものだったと再認識した。
 また皆川先生のピーター・ブロスの要約も簡潔で要点を押さえていて、わかりやすい。しかし最近は精神分析に関心をもつ研修医にきいても、「ピーター・ブロス?誰っすか、それ。聞いたことないっすよ」という返事である。私はあまのじゃくなので誰も読まないとなると、「必読図書です、読んでください」といいたくなるのだけれど、実際邦訳である『青年期の精神医学』は手に入りにくそうだし、英語版である『On Adolescenceはやけに細かい字の詰まった本なので、忙しい研修医に読ませようとすれば「しんどいっすよ、かんべんしてくださいっすよ」と間違いなく言われるだろう。

 しかし、あれだけ良くできた本なのになぜ読まれなくなったかというと、やはり治療との懸隔があるということにつきると思う。思春期の発達過程について精緻な精神分析的発達論が用意されていても治療場面だとそこまで必要でないし、精緻な理論を通して患者を理解しようとすると、患者はそのぎごちなさや虚偽性に気がついて、その弱みをついてくることになってしまう。だから治療論を自我心理学的視点から述べようとするならば、「New Object」という新たな概念が導入せざるを得なくなったのだろう。この本の中のNew Objectに関する論文で、乾吉佑先生は次のように説明されている。

 new objectとしての治療者になるということは、・・・治療者とのさまざまな治療関係を経て、患者側が新たな理解者、新たな依存対象、新たな同一化の対象としての治療者像を内的に形成することによって成立するものである。(P252)

 というように、治療者との対人関係的な交流を通じて内的対象が変化することが治療上重要だとみなしており、これだけみれば「標準的」な精神分析技法から外れた主張ということになるわけだが、それでもこの論文ではあくまで、「new objectとしての治療者との体験だけで青年期治療の目標が達成されることは少ない。・・・転移や抵抗の分析が、青年期治療でも必要な場合が多い」という立場をとって、標準的技法への忠誠を維持している。
 でも現在の関係論的視点から見れば、患者の言動の背後に潜む情動的な意味を理解しようと粘り強くこころみることこそが、治療者をnew objectたらしめる由縁なのだと考えることができるわけで、そう考えるならば、歴史的にみれば、標準的技法から関係論的な技法へと架橋する役割をNew object論が果たした、ということができよう。

 ところで巻末の小此木啓吾氏と河合隼雄氏の対談から、一カ所抜粋を。

河合 私は大まかに言って、やはり女性の方がアーリー・アドレッセントに問題が多く、逆に男性の問題はレイト・アドレッセントではないかと思います。というのは、女性にとっての青年期というのはそれを受け入れることによって始まるわけです。ところが男性にとっての青年期は自分がそこから出ていこうとすることによって始まるわけです。(p316)

 こういうことを対談の席でさらっと言えるところが、河合先生すごいっす。