小此木啓吾、北山修編『阿闍世コンプレックス』を読む

 今日も小此木啓吾北山修編『阿闍世コンプレックス』を引き続き。この本はじっくり取り組んだ。充実した内容の一冊であったが、私にとってこの本の白眉は、第6章「阿闍世コンプレックスと古澤の人間的背景」にあった。古澤に師事した木田惠子氏の『問題は胎児から』という論文に、重要な事実の紹介がある。

 古澤先生は代々村長を勤める大地主の家に生まれたが、10人兄弟の9番目の子供で、下に妹が一人いる。その妹の名前が「とめ」さんなのをみても、9番目の子供も母にとっては重荷であり、歓迎されなかったろうということは容易に想像される。・・・生まれるとすぐイシという子守にあずけられ、イシは近所の夫人から貰い乳をして育てたという。(P344)

 そして右目を失明したことについて、古澤は次のように語ったという。

 「私は貰い乳をする家の子の強い非難の視線を横目ではね返しながら、その子の母の乳をむさぼったから、その目が罰せられたような気がするのですよ」(p344)

 こうした事実から垣間見える古澤の心理と「阿闍世コンプレックス」の概念化とのつながりが、佐藤紀子氏や北山修氏によって論じられていく。こうした視点での考察には過去触れてこなかっただけに大変面白く読んだ。
 しかし古澤氏に関する検討だけでなく、本来同様に語られるべき主題は、「阿闍世コンプレックス」に生命を与え続けてきた小此木啓吾氏の人間的背景であるはず、ではある。しかし小此木先生の行った教育活動の広さを考えれば、その影響から無縁な立場の人の数は多くはないだろうから、このテーマを語ることは大変難しい作業でもあるのだろう。しかしいずれは取り組まなければならないテーマであることは確かだ。今回の北山氏の論文にはその試みをわずかに行っている形跡が窺えるが、共同編者ということもあって十分に踏み込めてはいない。今後の展開を期待したい。

 この章以外に含まれている論文では、西園昌久、高野晶、の両氏の論文には教えられる点が多かった。
 西園氏は、阿闍世譚を古澤が読み替えた理由を、浄土真宗の他力本願の信仰と、鶴見祐輔の『母』をベストセラーにした時代精神との影響に見ている。こうした広い文化的、歴史的視点で古澤の仕事の意義を見ていくことが必要だろう。
 一方、高野氏は、自らの臨床体験上は「阿闍世コンプレックス」に有用性をあまり感じていないことを正直に吐露しつつ、「未生怨」という言葉が治療上有用だった事例を紹介している。この記述にあたって高野氏の言葉の選択が非常に繊細であり、この執筆態度と治療者としての態度には学ぶ点が多かった。
 高野氏が指摘するように、「阿闍世コンプレックス」という概念は、臨床的に使いにくい。その理由のひとつはこの概念が、韋提希夫人の主観的体験と、阿闍世の体験とが合体して概念化されているところにあるからだ。そしたこの両者個別の心理、そしてこの両者の対象関係論的な心理的布置までもがこの概念に背負わされてしまっているために、「エディプス」という言葉によってエディプス的な布置が見えやすくなるのと対照的に、「阿闍世」といっても患者心理を理解する上では夾雑物が多くなりすぎて使いにくくなってしまっている。だから、この概念を臨床的に使える道具とするのであれば、次の三つに細分化したほうがよいのではないか。1)母の側が体験する複合心理を表す概念として「韋提希コンプレックス」、2)阿闍世の未生怨を主題とした「阿闍世コンプレックス」、3)その両者の関係論的布置を表す「韋提希−阿闍世の関係」。この三つにわけてとらえるほうが臨床的に役立つと思う。

 など、いろいろと考えさせられた。こうした思考へ誘ってくれるという点で、私にとっては良い本だった。ただ編集上気になったのは、初出年度が抜けている論文が散見されるということだ。特に小此木啓吾著『古澤版阿闍世物語の出典とその再構成過程』に抜けているのは残念だ。もし版を重ねることがあれば修正を期待したい。

 ところで、最近トイレでよくみかける、「いつもきれいにご使用いただき、ありがとうございます」という張り紙。この張り紙を見ると「きれいにつかわなきゃな」という思いにさせられるが、なぜだろう、と思っていた。

 日本的マゾヒズムとはその献身と自己犠牲とゆるしによって自発的な罪悪感を相手に引き起こし、この情緒に訴えていつの間にか相手を支配し、人を動かしていく日本的な支配原理である。(p49)

 そうか。あの張り紙の向こうにいる清掃員の方々の、日本的マゾヒズムの強制力につきうごかされてしまうから、「きれいにトイレをつかわないとな」という思いにさせられるというわけか。もちろん英語でも、「Thank you for your cooperation.」と言うが、でもこの英語表現にはあまり強制力はない。なぜ日本語の表現だと強制力があるかといえば、発話者がへりくだっているところがポイントであり、この「へりくだり」がマゾヒスティックな支配を生むところが日本的人間関係の面白いところだ、と感じた。