春画における「隠す」と「見せる」

 「見せる」「見られる」の違いについて考えるために、田中優子著『春画のからくり』を読む。2009年、ちくま文庫
 著者によれば、春画は「隠す」と「見せる」の相克の中で発展してきたのだという。まず江戸初期の春画は、基本的に性交を「見せる」ために描かれた。だから男女は全裸に近い姿で描かれ、背景はほとんど何も描かれなかった。しかし次第に意図的に「隠す」ことが重視されるようになり、「隠す」技法が深化する過程が春画の発展であったという。隠されることで、より「見たい」気持ちが喚起され、よりエロティシズムが高まるというわけだ。著者はこの例として、国芳春画をあげている。

中央に描かれた大股開きした女の下半身の白さが目を射るように鮮やかである。そして書き入れを読むと、その思い入れがみえてくる。「アレそんなにまくつて見ておくれでない、愛想がつきると悪いから」と女はいう。男があまり熱心に見て、その生々しさに自分をいやになるのが怖い、と言っているのだ。足首を握って股を覗き込んでいる男は「いヽじやァねへか、見るは法楽、見らるヽは因果だ」と洒落を言う。この二人のセリフの中には、まさに「隠す」と「見せる」の関係が現れている。(p26)

 著者は、このような「隠す」「見せる」の対立は、春画だけにとどまらず日本の美術や文芸の特徴の一つだと指摘する。描こうとする主題は、ごく小さく、ごく弱く描くにとどめ、そのかわり、その周辺を過剰な装飾で埋めていく。場合によっては、中心部にはほとんど何もなくなり、ただ過剰な装飾だけが覆い尽くすことにもなる。そういう特徴が、さまざまなアートの中にあらわれているというのだ。たとえば幸田露伴尾崎紅葉の講談調の文体はその典型だろうし、東照宮陽明門もまたそのような典型ということができるだろう。
 この指摘がどこまで妥当なのか、判断するだけの見識を私はもちあわせていないが、ただ河合先生の「中空構造」論とつながるという点で面白く読んだ。

春画のからくり (ちくま文庫)
春画のからくり (ちくま文庫)田中 優子

筑摩書房 2009-04-08
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